2019年09月15日

パリ国際芸術都市(シテデザール)

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パリ留学中の油彩画家、河合真里さんと友人の小野有美子さんの展示を見るため、スタジオ付き滞在施設「シテデザール」を訪れた。パリ市庁舎から約400メートル、ポンピドーセンターからも徒歩圏である。滞在施設といっても日本では類がないほど大きなもので、常時、数百人が活動しているそうだ。パリの人たちが夏のバカンスから戻ってきた9月第1週、その建物でオープンスタジオのようなイベントが開かれていた。

受付で荷物検査を受けると、入場券代わりのシールをくれた。建物は5階建て。日本の明るい照明に慣れた目には、長い廊下はやや薄暗い感じだ。このイベントは部屋ごとに作品を展示している点ではホテル型のアートフェアとも似ているが、アートフェアと違って作品の販売はしていない。本館と呼ばれる建物の地下にはホワイトキューブ型のスペースもあった。見て回った範囲では、絵画は少なく、映像作品が印象に残った。

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その中で河合さんは、パリで描いた新作絵画を小野さんと一緒に展示していた。2人は武蔵野美術大学の同級生だが、同じ油彩画でも、作風、モチーフはまったく異なっている。小野さんは風景、河合さんは生き物ともモノともつかない奇妙な形。しかも河合さんは平板な表現で、たぶん日本では見せたことがない紙の作品も出していた。パリの水が合っているのか、新しい作風に挑む余裕が生まれているようだ。

滞在半年の彼女によると、シテデザールは「いろいろな国の人、さまざまなキャリアのアーティストと出会えるのがよいところ」。毎月1回、ランチタイムに中庭で開かれる交流会も楽しみだと話していた。一方、アトリエの扉を閉めて制作に没頭していると、だれとも話さずに一日が終わることもあるらしい。国際都市の刺激と静かな制作環境の両方が手に入るということなのだろう。
posted by Junichi Chiba at 12:33| アート

2019年09月12日

パリのメトロ

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パリのメトロ(地下鉄)の駅で乗車券を買った。料金は1人1.9ユーロ、2人分で3.8ユーロである。タッチパネル式の券売機を操作し、20ユーロ紙幣を入れた。計算上、おつりは16.2ユーロだから、切符2枚のほかに、10ユーロ紙幣1枚と硬貨数枚が出てくるだろうと思っていた。ところがスロットマシンで大当たりしたかのように、ガチャン、ガチャン、ガチャンと、コインがあふれ出さんばかりに落ちてきた。その数約30枚。

出てきた硬貨をかき集めて小銭入れにしまおうとしたが、入りきらない。仕方なく、一部はズボンのポケットに突っ込んだ。釣銭として紙幣の用意がないのだとしても、16ユーロ分は2ユーロ硬貨なら8枚、1ユーロ硬貨でも16枚である。なぜ50セントなどを交ぜて硬貨を30枚も出してくるのか、現金を使う人への嫌がらせなのか。事情がわからないまま、次回から券売機で切符を買うときはクレジットカードを使うことに決めた。

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そして3時間後、再びメトロに乗る機会がやってきた。クレジットカードで切符を購入するという決意は揺るがぬまま、券売機に向かった。先客は外国人旅行者一組(4人)だけである。彼らはパリ郊外に行こうとしていたらしかったが、機械の操作に手間取っていて、時間が過ぎるばかりだった。私はパリ市内の切符しか買ったことがなく、切符の買い方を教えてあげようにも教えてあげる自信がなかった。乗り越し精算という仕組みがないから、間違ったことを教えると後で大変なことになってしまうという気持ちが先に立った。

自分が切符を買うところを参考までに見せる手はあるのかもしれない。しかし相手は4人で、こちらは1人。財布からクレジットカードを取り出すところを見られるのは嫌だし、暗証番号を入力するところを見られるのも嫌だ。結局、私の後ろに並んだフランス人がいらいらし出したので、4人はいったん切符の購入をあきらめた。私はすかさずクレジットカードで自分の切符を買い、その場を立ち去った。

駅員がいてくれればとは思うが、パリのメトロの改札はすべて無人だ(駅によっては有人の切符売り場ならある)。ホームにも駅員はいない。東京の地下鉄では、乗客が駅員を殴る事件がときどき起こるが、パリのメトロには駅員がいないのだから、そうした事件は起こらないだろう。ある意味、駅員にとっての防犯は徹底している。と同時に、乗客は自分で自分の安全を守れと言われているような気がしないではない。釣銭として紙幣を出さないのは、何かあったときの被害を少なくしてあげようということなのだろうか。
タグ:パリ
posted by Junichi Chiba at 21:43| 日記

2019年09月03日

バルサの自己主張

米国の政治記者、フランクリン・フォアがサッカーを題材にグローバル化の問題を論じた『サッカーが世界を解明する』(伊達淳訳)は読みごたえのある本だ。十数年前に初めて同書を読んだときは、サッカー界の差別の実態に衝撃を受けた。著者が「人種差別と手を切れないクラブ」として、パリ・サンジェルマン、チェルシー、グラスゴー・レンジャーズ、レッドスター・ベオグラードなどの実名を挙げていたからだ(「イタリアのクラブの半分」も入っていた)。

差別は人種だけでなく宗教ともからむ。かつて中村俊輔選手が所属したセルティックのライバル、レンジャーズは「選手から守衛にいたるまでプロテスタント限定という方針を制定していた。そしてその方針は、厳しくなる一方だった。カトリック教徒と結婚した者が重役に昇進することはなかった。レンジャーズは自ら悪質なプロテスタント政策の拠点となることを選択した」。昔の話なのかもしれないが、こうした話を読んで、サッカークラブの経営はきれいごとではすまないのだなと思ったのはたしかだ。

久しぶりに同書を読み直しても、そうした差別に関するエピソードには重苦しい感想を抱かざるをえない。しかし一方で、十数年前に読み落としていた部分があったことに気がついた。それはバルサ(FCバルセロナ)に関する記述だ。著者のフォアは「バルサはこうした『空白部分』を見事に埋めている。クラブとしての歴史の中で控えめな部分は維持しつつ、洗練された自分たちを主張してきた」と指摘している。

フォアによれば、バルサ博物館にはダリやミロの絵画もあり、「正門を出たところには、ドナルド・ジャッドのようなミニマリズムから新未来派まで、幅広い現代彫刻が展示されている」。そしてバルサは「クリーンな自分たちを証明するために、基本は商業ベースだとしても本来はもっと崇高な精神で運営しているんだということを強調しようと」し、「ユニフォームの胸部に広告を載せていない」と記している(今はバルサも広告を載せている)。

これらが事実だとして、今疑問に思うのは、なぜバルサが洗練された自分たちを主張し、崇高な精神を強調したのか、ということだ。著者も指摘するように、ユニフォームの胸部に広告を載せないことは他のクラブへのあてつけである。それができたのは、バルサにはある意味、サッカー界の主流ではないという感覚があって、それゆえ、腐敗したサッカー界の現実を避けることが有効な戦略だったのではないか。

ダリにもジャッドにも直接関係はないが、アートはしばしば、現実を塗り隠すのにも使われる。人種差別やナショナリズムが現実だとすれば、それらを塗り隠すこともまた現実だ。
posted by Junichi Chiba at 23:04| 日記

2019年07月15日

ナポレオン生誕250年

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今年はナポレオンの生誕250年である。どこかでそうした情報に触れていたからか、新聞や書籍で「帝国」「皇帝」といった文字を見ると、ナポレオンのイメージが浮かんでくる。征服精神にあふれたナショナリスト、あるいは武力行使をいとわない強力な指導者のイメージだ。ロシアのプーチン大統領やトランプ米大統領にもそうしたイメージがかぶる。

プーチンやトランプが政治家として人気があるのだとしたら、それはナポレオン的なリーダーが人々に求められていることの証左だろう。「ナポレオン」は伝説的なキャラクターであるだけに、そのイメージは実世界と架空の世界を行ったり来たりしながら膨らんできた。実際、ユゴー、バルザック、スタンダール、トルストイら文学者は、ナポレオンから大きな影響を受けている。ナポレオンを否定することさえナポレオンのイメージを強化した。

文学だけではない。映画「スター・ウォーズ」のダース・ベイダーにもナポレオンのイメージがある。ダース・ベイダーが仕える帝国は一貫して邪悪な存在として描かれているが、主人公のルーク・スカイウォーカー(共和国側)がどれだけ活躍しても、観客をひきつけるのはダース・ベイダーだ。本編ではない「ローグ・ワン」でさえ、彼が一番目立っていた。ナポレオン的なキャラクターは時代が変わっても古びていない。

150年以上前、そのナポレオンに挑んだ作家がいた。フランスの小説家、ユゴーである。ユゴーは『レ・ミゼラブル』で、ナポレオンとは対照的な人物としてジャン・ヴァルジャンを描き出した。2人は同じ1769年生まれだが、ナポレオンが権力志向の誇大妄想的な軍人だとすれば、ジャン・ヴァルジャンは悪事を働くものの根は善良な市民である。ユゴーはナポレオンを乗り越えたかったらしく、『レ・ミゼラブル』を翻訳した西永良成の言葉を借りれば、ジャン・ヴァルジャンを何度もイエス・キリストになぞらえている。

しかし今、ジャン・ヴァルジャンが、同い年のナポレオンほど人気があるだろうか。尊敬できる人間でも大衆受けするとは限らない。現代人から見れば、ダークサイドの魅力という点で、ナポレオンやダース・ベイダーに分があるだろう。ジャン・ヴァルジャンは純粋過ぎるのかもしれない。悪魔的な激情とクールな知性が同居するナポレオン的なキャラクターの魅力は今も強い。
posted by Junichi Chiba at 21:33| 日記