2020年05月25日

始まりの舞台は砂漠

5月25日は映画「スター・ウォーズ」第1作の公開記念日だ(米国公開は1977年、日本公開は78年)。2年ほど前、久しぶりに会った大学時代のゼミの先生が、若いころ留学先のシカゴで「スター・ウォーズ」を見たときの感想を、きのうのことのように話してくれたことがあった。公開から40年以上たって、当時のことを含めて感想を言い合えるような作品はほかにはない。この映画の公開自体が社会現象だったと、腑に落ちた。

そんな作品だから、多くの人からさまざまな感想を聞いてはいるが、この42年間、語り尽くされていないと感じるテーマが一つある。それは「スター・ウォーズ」シリーズの中の砂漠だ。実は同じ感想を持つ人と会ったことがないのだが、私にとって「スター・ウォーズ」の原風景は宇宙空間ではなく砂漠なのである。農場で働くルーク・スカイウォーカーがドロイドのC-3PO、R2-D2と出会った砂漠だ。砂漠など見たこともないのに、スター・ウォーズのどの作品でも砂漠のシーンが出てくると、なぜか懐かしい感情が湧いてくる。

「シスの復讐」(2005年公開)あたりからは、ルークが育ったタトゥイーンはなぜ砂の惑星なのか、などと考えるようにもなった。かつては文明の発達した都市があったが、あるとき人口が増えすぎて崩壊したのだろうとか、森林破壊によって砂漠化が進んだのだろうとか、それくらいの想像である。砂漠の中に小さな街が点在しているのであれば、住民は農業だけでなく、交易で生計を立てていただろうと、考えたりもした(今も考えている)。

地球の歴史から類推すれば、このような地理的条件での交易品は奴隷だった可能性がある。作品中、ルークの父、アナキン・スカイウォーカー(ダース・ベイダー)とその母は奴隷だったから、さほど的外れな推測ではないだろう。さらに推測を重ねれば、続三部作の主人公レイの祖母も奴隷だったかもしれない。地球のオスマン帝国を例にとれば、歴代君主の母はほとんどが奴隷だからだ(王妃との間に子をなすと、王妃の一族が政治に介入してくるから、皇帝はそれを避けた。奴隷であれば親族はなく、いたとしても口出しはできなかった)。

映画の中では、銀河系の社会についての説明はほとんどないため、背景に関わるところは勝手な想像でしかないとしても、シリーズを見終えた今も、私にとってスター・ウォーズといえば砂漠の印象が強い。見捨てられたような砂漠の惑星で農場に縛られた青年のルークが「こんなところにいたくない」と思っていたからこそ、あてもないまま反乱軍に加わり、物語が動き出した。第1作が公開直後から大ヒットしたのも、始まりの舞台が豊かな森などではなく、美しいけれど過酷な砂漠だったからだと、個人的には確信している。
posted by Junichi Chiba at 20:33| 日記

2020年04月21日

「ナウシカ」の余韻は疑問形

宮崎駿の漫画『風の谷のナウシカ』全7巻を読み終えて3週間たつが、いまだに余韻が残っている。特に印象深いのは、「旧人類」の計画が生んだ「墓所の主」と主人公ナウシカがやり合うラストシーンだ。これは、光と闇が入れ替わっているものの、映画「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」で、レイとパルパティーンがやり合うシーンとも重なって、頭から離れない。

墓所の主「お前は危険な闇だ 生命は光だ」
ナウシカ「ちがう いのちは闇の中のまたたく光だ 
     すべては闇から生まれ闇に帰る
     お前たちも闇に帰るが良い」

結局、ナウシカは、汚れた世界を清浄な世界に作り替えようとする「旧人類」の計画をためらいもなく破壊する。巨神兵の活躍もあって痛快な場面なのだが、同時にというか、少し遅れて、ナウシカのこの行動は正しかったのか、これはハッピーエンドだったのか、という疑問も頭に浮かんでしまう。たしかにナウシカは無私無欲ではあるが、深い考えがあるわけではなく、たまたま巨神兵という最終兵器を手に入れた興奮状態のまま行動しているようにも見えるのだ。

マスクがなければ生きていけないような汚れた世界が「善」なのか。清浄な世界を取り戻そうとする「旧人類」の計画は悪なのか。人間離れした能力はあるものの社会的なコミュニケーション能力が欠如しているナウシカのような人物が独断で、というか直感で人類の未来を決めてしまってよいのか。そうした、さまざまな疑問が次々と湧いてくる。

もし、巨神兵を手に入れたのがナウシカではなく、もともと巨神兵をさがしていたトルメキア王国の皇女クシャナだったとしたら、こうしたラストシーンは生まれただろうか。クシャナは終始、冷静な人物として描かれている。幼いころから王位継承のライバルである兄弟たちとの血みどろの争いに巻き込まれているため、政治的なセンスも磨かれている。しかし、冷静であるからこそ、直感の勝負で「墓所の主」を倒すことはできなかったのではないか。

クシャナにはリーダーの資質はあるとしても、考えるよりも先に手が動くようなリーダーキラーのナウシカでなければ、「墓所の主」をたたき、「旧人類」の未来の希望をつぶすという行動はできなかったはずだ。だからこそ、ナウシカの行動は正しかったのかという疑問が寄せては返す波のように繰り返されるのである。
posted by Junichi Chiba at 20:08| 日記

2020年04月02日

戦いを否定しないナウシカ

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新型コロナウイルスの感染拡大によって東京都が外出自粛を求めた週末、自宅にこもって宮崎駿の漫画『風の谷のナウシカ』全7巻を二十数年ぶりに読んだ(昔はバラバラに読んだから、一気読みは初めてだった)。産業文明の崩壊から1000年後、主人公の少女ナウシカが世界の秘密を知るために旅をする物語である。ウイルスの感染拡大で気分が沈みがちなときに、この重苦しい漫画を7冊読み終わると、身も心もくたくたであった。

論語に「怪力乱神を語らず」という言葉があるが、漫画版のナウシカは「怪力乱神」だらけである。映画版はかなりディズニー寄りだが、漫画版には映画版のような軽やかさや明るさがない。廃墟、略奪、黒い森と穢れの民――。ねばねばの粘菌やら、ドロドロに腐った肉やらも頻出し、さわやかという言葉からはほど遠い。欲望も戦いも否定しないナウシカはむしろダークサイドのヒロインだ(巨神兵の母でもある)。

改めて7巻を通して読むと、正直、若いころは全体像をつかめていなかっただけでなく、重要な細部もかなり読み落としていたことがわかった。たとえば、土鬼(ドルク)という帝国の皇兄ナムリスは物語の展開に大きな影響を与えるキャラクターであると気がついた。第5巻の初め、ナムリスが皇弟に向かって発するセリフは印象深い。

「俺のおそれることはただひとつ この血を一度もたぎらせることなく終わることだ」
「管だらけになっても不死を願うお前とちがい 俺には帝国も死もどうでもいい」

このセリフには、宮崎駿の本音が表れているのではないだろうか。人工の生命であろうと自然の生命であろうと、生きようとして生きているものが生物であるという考え方だ。ナムリスは残酷で欲望のままにふるまい、一見、単純なキャラクターだが、「墓の主」や死者に奉仕するくらいなら死んだ方がましだと言わんばかりの態度が大きな問いを投げかける。それは、そもそもコントロールできないものが生物なのではないか、という問いだ。

こうした脇のキャラクターや細部が読めてくると、生命とは何かというテーマがはっきりと浮かび上がってくる。第7巻の終盤、ナウシカは「清浄と汚濁こそ生命だ」と主張し、ナムリスを上回る形で血をたぎらせるが、そうした狂気じみたシーンを違和感なく読めるのが、この作品の大きな魅力だ。読み終わった瞬間、何年かの時間をおいてもう一度読みたいと思わせる漫画である。
posted by Junichi Chiba at 20:50| 日記

2020年02月24日

アートフェアの延期

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1週間前の日曜の夜、東京・汐留にあるパークホテル東京の25階エントランスに、内田涼の絵画3点を展示した。ホテル型アートフェア、ART in PARK HOTEL TOKYO (AiPHT)の予告編「AiPHT PLUS(アイファット・プラス)」への出品である。3点とはいえ展示を終えたときにはそれなりの高揚感があって、いよいよ1カ月後にはアートフェア本番だと思っていたのだが、3日後の2月19日、「フェア開催延期」の連絡が届いた。

AiPHT2020延期の理由は新型コロナウイルスの感染拡大だ。橘画廊としてこれまで30回近くアートフェアに出展してきたが、アートフェアの中止や延期に当たるのは初めてである。感染拡大が続き、ジャンルを問わずさまざまなイベントが中止されている状況では仕方がない。日本中で同じような気持ちの人たちが大勢いるのだろうなと思いながら、地下鉄の駅の近くから出展作家に延期の連絡をした。

昨年のラグビーワールドカップでは、台風の影響で1次リーグ2試合が中止になったが、イングランドのエディー・ジョーンズ監督は「ショウガナイ。台風はコントロールできない」と語っていた。20回アートフェアに出るなら、1回くらいの中止や延期はありえると考えておいた方がよいのかもしれない。今思えば、6年前、民主派デモ真最中の香港でACAS HONG KONGが中止にならなかったのはむしろ幸運だったのだろう。

AiPHT出展予定のアーティストを紹介する「AiPHT PLUS」はパークホテル東京の25階と31階で予定通り3月21日まで開かれる(会期中無休、午前11時〜午後8時)。AiPHT自体は3月下旬から9月25〜27日に延期されたが、時間ができたぶん、出展アーティストへの関心が高まってほしいと願っている。画像は内田涼の「形態aの提案(Form a)」シリーズ(2019年、アクリル、カンバス)。
posted by Junichi Chiba at 19:02| アート