2020年10月07日

パラレルワールドではない

Ryo Uchida below eight, four shadows 2020.jpg
artTNZに出していた内田涼の新作絵画「8未満、4つの影」(画像、2020年、アクリル、カンバス、116.7×116.7センチ)の前で、「どちらが影だかわかりませんね」という感想を何回か聞いた。画面の上半分と下半分にはそれぞれ4つの形が現れているが、どちらが実体でどちらが影なのか、手がかりがなく、謎に包まれているからだ。

実は内田は、画面の下半分で即興的に形を描いている。そしてトレーシングペーパーを使ってそれらを写し取り、画面の上半分に描き直している。描く順番からすれば、下の方が実体で上の方が影だ。ところが画面の下半分は絵の具を垂らした色むらなどで行為性を強調しているのに対し、上半分にはそれがなく、色も鮮やかなため、下が影のようにも見える。実体と影の区別がつかないのがこの作品の面白いところだろう。

私自身は影を実体のもう一つの姿と考え、それらが別々に存在するパラレルワールド的なイメージを持っていた。しかしお客さんたちが上と下は一続きだと話すのを聞いているうちに、印象が変わり始めた。一緒にいた浅野綾花が「最近、村上春樹の『1Q84』を読んだ」と言ったことも影響した。影が意思を持つといった話があったのを思い出したのだ。

『1Q84』のどこかに、影とパラレルワールドのかかわりについて何か書かれていたかもしれないと気になったため、図書館に行って調べてみた。すると、宗教団体のリーダーと呼ばれる男(作中人物)が心理学者カール・ユングの説を紹介する形で、影について語る場面が見つかった(BOOKUのp. 275、276)。その場面のせりふは以下の通りだ。

「影は、われわれ人間が前向きな存在であるのと同じくらい、よこしまな存在である。我々が善良で優れた完璧な人間になろうと努めれば努めるほど、影はよこしまで破壊的になろうとする意思を明確にしていく。人が自らの容量を超えて完全になろうとするとき、影は地獄に降りて悪魔となる。なぜならばこの自然界において、人が自分自身以上のものになることは、自分自身以下のものになるのと同じくらい罪深いことであるからだ」

10年以上前に読んだ私の記憶とは若干違っていたが、影が意思を明確にするという記述はあった。この男が言う通り、影が意思を持ち、実体に影響を与えるのだとしたら、2つの世界は別々に進んでいるのではなく、つながっている。そのような世界はパラレルワールドではない。作品を前にして人と話したことをきっかけに、いろいろな目線で作品を見たりパラレルワールドについて考えたりすることができ、頭が柔らかくなった。

『1Q84』の中には、女子高生のふかえりが「マザ」(実体)であり、宗教団体にはふかえりの「ドウタ」(影)が残されているという設定もある。実体と影にそれぞれの役割があるなんて、アートや文学がなければ考えもしないことだ。ついでに、10年前に気に入っていたせりふを思い出したのも収穫だった。「すてきなギリヤークじん」
posted by Junichi Chiba at 21:11| アート

2020年09月27日

アートフェア再開

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TERRADA ART COMPLEXU(東京・天王洲)を会場として初めて開かれたアートフェア、artTNZ (9月17〜21日)は無事5日間の会期を終えた。感染症対策のための完全予約制や顔認証システムを使った入場受付など不安もなくはなかったが、会場では特に問題は起こらず、拍子抜けするほど普通にお客さまの対応ができた。

1年半ぶりにアートフェアに出て感じたのは対面でのコミュニケーションの重要性だ。初めて会った人や久しぶりに会った人とのたわいもない会話自体が楽しいし、そうした会話の時間は自身の感覚を確かめるうえで貴重な機会でもあった。自宅にこもってさまざまなウェブサイトを見ていると、「ウィズコロナ時代のアートの役割とは」みたいな記事を目にすることがある。しかしアートフェアの現場では、同業者にせよ来場者にせよ、そうした理屈っぽいことを口にする人と会うことはなく、ホッとした。

今回展示したのは、いずれも30代の芝田知佳、浅野綾花、内田涼の作品計20点。中止になったホテル型のAiPHT2020で予定していた作品をそのままスライドさせた。本当は展示場向けに構成を考え直した方がよかったのだろうが、初めて開かれるアートフェアで客層が読めないため、積極的な手を打たなかった。正直、あまり結果を期待していなかったものの、作品をお買い上げになった方全員が新規のお客さまだった。

この様子なら、展示場型であれば、感染対策をしつつアートフェアを開くことはできるだろう。課題はやはり採算である。主催者によると、artTNZの入場者数は内覧日を含む5日間で延べ2664人。1時間当たり100人に制限したため、予定通り入場者数は少なかった。感染対策のテストケースとしてならよいのだが、ビジネスとしては、入場者数がこの2倍くらいないと出展経費との見合いで採算は厳しい。

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これからリアルなアートフェアの制限が緩和されていくのか、リアルなアートフェアとオンライン販売の組み合わせに移行していくのか。イベントをまったく開催できないという危機的な状況からは抜け出し、焦点は次のステージへと移っている。

上の画像は開幕前日の橘画廊ブース(TERRADA ART COMPLEXUの3階、9月16日)、下の画像は会場入り口。
posted by Junichi Chiba at 17:36| アート

2020年07月31日

アートフェアの感染対策

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3月に予定されていたアートフェア、ART in PARK HOTEL TOKYO(AiPHT)はいったん9月に延期されたが、中止が決まった。ホテル客室は「三密」が起こりやすいため仕方がない。一方、寺田倉庫(東京・天王洲)を会場とする新しいアートフェア、artTNZが開かれることになった。AiPHTの主催者は共催者の立場でartTNZに合流した。これに伴い、もともとAiPHTに参加予定だった橘画廊はartTNZに出展する。

新型コロナの影響で今年2月から、アートフェアなどイベントの延期や中止が相次ぎ、アート業界は停止状態に陥った。アートファン同士が意見を交換したり、アーティストの声に耳を傾けたりする場が失われてしまえば、アートへの関心すら消えてしまいかねない。イベントができないのは致命的だ。それだけに、感染の拡大が落ち着き、アートフェアを再開することができれば、危機的な状況から脱け出す道が見えてくる。

もちろん一足飛びに元に戻れるわけではない。通路の広い展示場はホテルの客室より「三密」になりにくいとはいえ、たくさんの人を会場に集めることには感染のリスクが伴う。映画館やコンサートホールが座席数を減らして観客同士の距離を保とうとしているように、アートフェアでも何らかの制限をもうけることはやむをえないだろう。厳しい制限を少しずつ緩和していくことが結局は日常を取り戻す近道であると納得できる。

しかしである。artTNZ主催者(一般社団法人アート東京)の打ち出した感染症対策の3つの指針を読んで驚いた。「疑わしきは入れない、 1時間100名の入場制限、完全予約制」。顔認証システムを使って入場を受け付け、予約登録者の本人確認を厳密にするという。これは予想以上に厳しい運営方針であった。アートのコレクターにはシャイな人が多いが、顔認証なんて大丈夫なのだろうか(バンクシーみたいな覆面作家は入場できるのだろうか)。

この5カ月、不確実なことにすっかり慣れてしまっているため、何がよくて、何がよくないのか、とっさに判断がつかない。artTNZは古い考えを捨て去る通過点なのかもしれないとも思うが、準備段階での心境は複雑だ。会期は2020年9月17〜21日。会場はアートの複合施設、TERRADA ART COMPLEXU の3Fと4F。橘画廊は3Fブースへの出展が予定されている。(画像は東京・天王洲、2019年9月撮影)
posted by Junichi Chiba at 18:47| アート

2020年06月28日

生命は大地から誕生した

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コロナの緊急事態宣言が出たころから、自宅で読書する時間が増えた。この3カ月で一番面白かった本はデヴィッド・W・ウォルフ『地中生命の驚異 秘められた自然誌』(長野敬・赤松眞紀訳)だ。20年近く前の本ではあるが、「生命は海ではなく大地から誕生した」という仮説が興味深い。「地中何千フィートという深さで酸素も光もない高温高圧の場所に繁栄する微生物の社会があった」という記述にはまさに驚いた。

「地下を生命のゆりかごとすることは、20世紀の大部分にわたって普及していた考え、つまり水分が蒸発して生命出現に適する『原初のスープ』となった浅い水溜まりの中とか、あるいは海水面の近くで生命が始まったとする考えに反していた。原初のスープという考えは、生命が『温かい小さな池』から生じただろうというチャールズ・ダーウィンの推測に端を発している。ダーウィンは1871年に、同僚の植物学者ジョゼフ・ドールトン・フッカーに宛てた私信にこのことを書いている。ただし彼はこの考えに確信を持っていたわけではなく、それを広めようとも考えなかった。それにもかかわらず、彼の後継者たちはこれをかなり真剣に受け取った」。こんな重要なことを私は20年近くの間、知らなかったわけだ。

しかし知らなかったのは私だけではない。今も人文系の学者が「地球上の最初の生命体は海中の単細胞生物だった」と書いているのを目にすることがある。「生命は海で誕生した」という考えはなかなかロマンチックだから、20世紀に定着したまま修正されていないのだ。宮崎駿の漫画『風の谷のナウシカ』で、主人公のナウシカは「すべては闇から生まれた」と言っているが、それは比喩ではないかもしれない。ウォルフの示唆が正しければ、生命は光を必要としなかった。

そして、ウォルフのこの本にはもう一つ驚きのポイントがある。それは、生命の系統樹という概念がひっくり返される可能性である。

「今では三つのドメインが大昔に分かれて、ほとんど独立して進化してきたのだろうと考えられている。しかし普遍的な系統樹の根元に近い部分では、それぞれのドメインの関係は入り乱れている。これら最古の単細胞生物は、縁の遠い生物の間で、ときにはドメインを超えて遺伝物質を『水平に』伝達できたからである。こうした原始的なレベルでは、1960年代の自由奔放な『フリーラヴ』フェスティバルのように遺伝物質が交換されていた。ただしそれは家庭向けの映画のようにセックス抜きの方法で行われた。それは『食べたもので自分が決まる』方法なのだ。傷ついた細胞から放出された遺伝物質が食物のようにして別種の活動的な細胞に取り込まれて、そのゲノムに組み込まれてしまうのだ」

三つのドメインとは、(真性)細菌、古細菌、真核生物である。要するに生命の系統樹は、一つの基部から枝分かれしていったツリー型ではなく、ネットワーク型だった可能性があると、ウォルフは指摘している。やはり『風の谷のナウシカ』第6巻で、セルムというキャラクターが「食べるも食べられるもこの世界では同じこと 森全体が一つの生命だから……」と言っている。たしかに、片方の遺伝物質が残るのではなく、遺伝物質が交換されるのだとしたら、食べるも食べられるも同じことだ。

もともと海にいたが、やがて地表に進出した緑色の藻のような生物は土壌菌類と共生し(菌類が水や養分を藻類に供給し、藻類は光合成の産物を菌類に供給した)、植物という形態で陸上に生き残ったという考えにも興味をひかれる。分子生物学や遺伝学の発展によって、これからさらに新しい事実が発見されるだろうという予感がわいてきた。そのときに、20世紀に定着した生命のイメージが変わるのではないか。
posted by Junichi Chiba at 18:09| 日記