2015年12月15日

静謐なドラマのイメージ

Memento mori A910.jpg
「死は生きることの一部」とは映画「スター・ウォーズ エピソード3」でのヨーダのせりふだが、今、橘画廊で個展「循環+LOOP」を開いている韓国人アーティストのダニエル・リーも「死によってすべてが終わるのではなく、それは新しい出発だ」と話していた。「生きることの一部」であれ「新しい出発」であれ、両者の言葉の背後には、死によって存在が消滅するわけではないという考えがある。

こうした考えは死の恐怖から逃れるための願望であると言われれば、そうかもしれない。しかしこの願望はただの達成できない望みではなく、ときとして社会への大きな影響力を持つ。古くから「死」が人々の想像力を刺激し、宗教や芸術を生み出してきたことには疑いの余地がないだろう。資本主義でさえ死の恐怖を和らげる効果があるから普及したという説もあるくらいで、そうだとすれば死への意識は人間の行動を動機づけているともいえる。

問題は死への意識の表現方法だ。ダニエル・リーの作品は風景や植物を二重露光によって撮影したデジタル写真である(一部パソコンでの合成あり)。素材はコットンペーパーにピグメントプリント(顔料系インク)。樹木と石など質感の異なるモチーフを組み合わせ、微妙な表情をつけている。身の回りにあるものの質感を表現したというより、未知のものの質感を表現した感があり、触れてみたくなるような写真だ。

やすらかでみずみずしく、清らか。草木が小さな居場所を見つけたかのような静謐なドラマのイメージ。アーティストとしての活動とは別に、二十数年来、霊園事業を営んできたリーがどのような死後の世界を思い描いているのかは聞きそびれたが、生と死を無理なく一続きのものとしてとらえる感覚は伝わってきた。画像は「Memento mori A910」(2015年、アーカイバルピグメントプリント、40.6×61センチ)。
posted by Junichi Chiba at 13:40| 写真

2013年02月27日

きっかけは浜谷浩 竹島善一の話(下)

Takeshima6 1984,会津若松市大戸町黒森.jpg
写真家の土門拳と木村伊兵衛のどちらが好きかと竹島に聞いたら、予想通り、木村伊兵衛だという答えが返ってきた。自らが持つイメージを前面に出す土門と、強い自己主張を好まない木村。「被写体に語らせる」という竹島のスタイルは木村に通じている。そして彼は「木村伊兵衛の風流が好きなんだ」と明かす。

竹島によれば、木村伊兵衛には東京の人間の洗練された眼差しがある。その洗練がもたらすのは、甘さの持つ風流だという。「木村伊兵衛はどぶ板を踏み抜くようなことはしない。そこが限界でもある。その点、土門拳は(木村の)限界を超えた。(土門の写真集)『筑豊のこどもたち』は好き嫌いを超えた素晴らしい仕事だ」。竹島の口調から、木村と土門の2人を尊敬していることが伝わってくる。

しかし、竹島が影響を受けたのはこの2人ではなかった。若いころの彼は東京から日帰りで京都や奈良へ撮影に出かけ、古寺巡りをしたが、これはと思う被写体を見出してはいなかった。そんなときに出会ったのが浜谷浩の写真集『裏日本』(1957年)だ。厳しい気候の中でたくましく生きる人の姿を伝える写真に衝撃を受け、浜谷が撮影した豪雪地帯を訪ねてもみた。

そうして竹島は雪の降る地域へと目を向けたのである。最初は東北全体を対象にしていたが、あるとき運命の出会いがあった。1970年1月の朝、弘前から夜行列車に乗り、くたくたで郡山に到着。向かいのホームに停まっていた列車に何気なく乗って椅子に座ると、熟睡してしまった。目を覚ますと、窓の外は雪景色。列車は会津盆地を走っていた。風が吹きすさぶ沿岸部と違いふっくらと降り積もる雪と、その雪に囲まれた人々の暮らしへの興味を抑えきれず、気がつくと雪の中を歩いていた。

会津盆地ではどこへ行っても山が背景にあるため絵になりやすいが、竹島は風景よりも人間に重点を置いた。「同じ福島県でも地域によって人間の気質が違う。同じ家に住んでいても親と子では性格が違う。人間ほど面白いものはない」。結局、どんな写真を撮りたいのかではなく、興味を持つ対象を記録し伝えたいという思いが四十数年にわたる撮影の原動力なのであった。

竹島善一写真展「会津 昭和五十年代の記憶」 (前期2013年3月4日〜9日、後期3月11日〜23日、橘画廊)
posted by Junichi Chiba at 18:44| 写真

2013年02月25日

ロープさばきにしびれる 竹島善一の話(上)

Takeshima1 1982,福島県田島町針生.jpg
東京在住で40年以上にわたって福島県の奥会津をモノクロームで撮り続けている竹島善一。若いころ、現地での話し相手の多くは高齢のご婦人だった。親しみをこめて、おばあさんと呼んでもよいだろう。長年、炉端談議をこなしてきた成果で話上手の人が多く、どんな話でも屈託なく語ってくれたそうだ。

上に掲げたのは1982年(昭和57年)11月、福島県田島町針生で撮影した一枚。かごを背負ったおばあさんの体に巻きついているロープは飾りではない。竹島によると、彼女はどんなものでも一本の手製のロープできっちり縛ることができた。「ロープさばきにしびれた」と言うほどのものであった。

しかしまもなく、そうした姿を見ることはできなくなった。軽トラックに荷物を載せて運ぶのが当たり前になったからだ。竹島が毎週日曜日、夜行列車に乗って奥会津に通っていた昭和50年代、農村の生活は急速に変わった。今写しておかなければという切迫感があったからこそ、本業の制約がありながらも奥会津の撮影に没頭した。

最も変化したものは何かと、竹島に尋ねると、間髪を入れず、住宅という答えが返ってきた。ひとことで言えば、茅葺屋根の消滅だ。竹島によると、昭和50年代、東京の企業の最末端の下請け工場が会津に進出し、「農民がサラリーマン化した」。賃労働の収入のおかげで、茅葺屋根の家をトタン屋根の家に建て替える資金が生まれたのだ。茅葺民家がなくなれば集落総出の屋ほごし(解体)もなくなり、共同体の生活は大きく変わる。

Takeshima3 1979,福島県昭和村大芦.jpg
2枚目の写真(1979年8月、福島県昭和村大芦)は車に乗っている若者たちが祭りの準備に向かう場面であろう。穏やかな郷愁が漂うこの一枚には、茅葺屋根の家と茅葺きではない家が一緒に写っている。一見さりげない写真だが、今なら農村の変化の波頭をとらえた一点として見ることもできる。

農村に限らず、どんなところでも時代の移り変わりは必然だ。しかし変わっていくものの中で何を記録するか、空間のどこを切り取るかは非常に選択的な問題であり、そこに記録者の視点が生きてくる。竹島はしばしば「記録に徹する」と言うが、それは判断やセンスを必要としないという意味ではない。(続く)
posted by Junichi Chiba at 19:41| 写真

2013年02月01日

写真展の打ち合わせ(続き)

竹島善一の本業は、東京・練馬の蒲焼き店「ふな与」の店主である。30代のころは、毎週日曜の夜に店を閉めた後、夜行列車に乗って奥会津に入り、月曜の夕方まで撮影するという生活を続けていた。写真の販売で生計を立てていないという意味ではアマチュアだが、竹島ほど年季が入り魂も入っていれば、写真家と呼んでもよいだろう。

都会生まれの都会育ちで、農業に詳しいわけではなかった。ある日、畑を前にして農家の人に「なんていう葉っぱなの」と聞いたら笑われた。「葉っぱじゃねぇよ。タバコだよ」。そうして笑い合った農家の人には5年ほどの間、しばしば宿を借りた。短い時間で農村に深く入り込んだのも才能だ。

「孫子の代に、昔こういう人間がいたんだと思われれば、それで十分」。撮影に専念するため、長年、人に見せたいという欲は抑えてきた。その裏には、農村の風物や人物の写真が同時代の人に受け入れられるのかどうかわからないという思いもあったに違いない。木村伊兵衛の秋田の写真でさえ撮影当時の評価は芳しくなかったのだ。本業の制約がある中で、作品の発表に消極的だったのは当然と思われる。

しかし近年は、撮影よりも撮りためた写真を人に託す作業に重点を置いている。写真はモノクローム。すべて自分で現像し、プリントしている。良い印画紙がなくなったと嘆きながら、作業は続行中だ。今、ビックカメラ池袋本店で一番多く印画紙や薬品を購入しているのが竹島である。「年とっているんだからやめろとか、ゆっくりやれとか言われるけど、年とっているから急いでいるんだよ」と、彼は言う。

3月に展覧会を開く。数万点規模のストックの中から出品できるのは20点ほど。今、出品作を選んでいる。もしかしたら会期直前まで決まらないかもしれないが、選択でもプリントでもめざすのは本物。心はずむ話をすると、きっぷのよさが出る。「本業でも道楽でも本物を追求するよ。本物が時代に合わねぇっていうなら討ち死にしてやるよ」。
竹島善一写真展(IMAONLINE)
posted by Junichi Chiba at 22:25| 写真