2018年05月06日

「ちょっとした税金」

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4月26日付のThe New York Timesは、世界最大規模のギャラリーの一つ、デイヴィッド・ツヴィルナーのオーナーが、小規模ギャラリーのアートフェア出展費用の一部を負担する用意があると発言したと伝えている。その記事はベルリンで開かれたアート業界の国際会議の報告で、見出しには「デイヴィッド・ツヴィルナーが『税金』を提案」と書かれていた。米大リーグには戦力均衡を目的にした収益分配制度があるが、それらのアート業界版といえる考えだ。

記事によるとツヴィルナー氏は「現在のシステムに何か問題があると感じている」「いくつかのギャラリーが市場を支配していて、若いギャラリーが競争するのに苦労しているのは、うれしいことではない」などとも発言している。そしてツヴィルナー氏本人の口から「ちょっとした税金のようなものだ(a little bit like a tax)」という言葉が出てきた。

具体的には、小規模場ギャラリーのアートフェアへの出展を後押しするため、大規模なギャラリーが出展料をより多く支払う方法を提案している。同じ記事で、Independent Art Fairの創立者兼CEOであるエリザベス・ディーの試算を紹介しているが、それによると、上位10%のギャラリーがアートフェア出展料として1万ドルずつ余計に支払えば、40%のギャラリーの出展料を12.5〜14%ディスカウントできるそうだ。

実際、「若いギャラリーが競争するのに苦労している」という指摘はまったくその通りで、小規模のギャラリーにとって有名アートフェアの出展料は高過ぎる。この3月にも、3331 Art Fairのブースに、海外有名フェアのマネージャーが来られて、今年のフェアに出ないかとお声がけいただいたが、後から「ブース代3万ドルです」などと言われかねないので、Yesと答えるわけにはいかなかった。

では「ちょっとした税金」は有効だろうか。仮に出展料が2万ドルで、十数パーセントのディスカウントがあったとしても、有名作品に人気が集中する時代、小規模のギャラリーが若手アーティストを連れて海外の有名アートフェアに出たら赤字の山を築くことになってしまう。援助があればありがたいことではあるが、おそらく焼け石に水だ。出展料数万ドルのフェアの十数パーセントを誘因と感じるのは、小規模というよりはミッドサイズのギャラリーの一部だろう。

以前、「ギャラリー業界はメガギャラリーとギャラリー、ガレージの3層構造である」と書いた(「ミッドサイズギャラリーの変化」)。今、メガギャラリーとそのほかのギャラリーの格差は広がる一方である。メガギャラリーにとってもアーティストの供給源が失われるのは困るので、小さなところへの目配りを始めたのだろうが、今の流れが簡単に変わるとは思えない。大リーグにダルビッシュや大谷を供給した日本ハムファイターズのように、中小のギャラリーは大手と同じ舞台で争うよりも、アーティストを引き抜かせるのが現実的なビジネスなのかもしれない。
タグ:ギャラリー
posted by Junichi Chiba at 17:38| アート

2018年04月22日

フラット化圧力

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橘画廊は4月20日限りで、3331 Arts Chiyoda(東京・千代田)から撤退した。2年の契約期間が過ぎ、契約を更新しなかった。この2年間、いろいろなことがあったが、一番印象に残ったのは2016年10月、千葉麻十佳展「The Melting Point; 石がゆらぐとき」に来られた年配の女性の「こういうの嫌い」「こういうの見ると、取り残された気分になる」という言葉であった。

その展覧会は千葉麻十佳の東京での初個展で、千葉はアイスランドやドイツの岩石を太陽光で溶かした作品と、溶かす過程を撮影した写真の作品を展示していた。いわゆるコンセプチュアルアートである。「わかりにくい」と言われるのは無理もないのだが、アート関係者ではない一人の女性が発した「とりのこされた」という七音は妙に耳に残ってしまった。

もちろんアーティストはだれかを取り残そうと思って制作しているわけではない。類型的な表現から離れようとしているだけである。コンセプチュアルだから科学的な思考に終始しているかというと、そうではなく、千葉麻十佳の作品などは、もとはマグマだった岩石をマグマに戻すことによって生々流転を表し、むしろ仏教的な世界観とも重なっている。

しかし千葉麻十佳の作品を見て「取り残された」と感じる人の気持ちも今ならわかる。たとえどんな内容であれ、目の前に理解しがたいものがあって、それに感心している人がいるという状況は心地よくないからだ。大衆文化と一線を画そうとするアーティストの振る舞いも気に入らないかもしれない。2016年10月、3331では文化庁メディア芸術祭20周年企画展が開かれていたこともあって、千葉麻十佳展には4週間で1000人近くがお越しになった。これだけ多くの方が来れば、さまざまな反応があって当然であった。

その後も、3331で大きなサブカル系のイベントが開かれたときなどに同様のことを感じることがあった。イベント目当てで3331に来場し、ついでにギャラリーに立ち寄る方と、新しい表現を求めるネイティブの(?)アートファンは宗教が違うかのように考え方が違っていて、前者に疎外感をもたらしてしまいがちだ。そして何かの拍子に反感が強まると、大衆的な引き下げ圧力に転化することもある。大阪にいたときは、ギャラリーに来られるのは限定少数の方であったから、そうしたことはあまり気にすることがなかった。

2年前のブログで、3331には成長過程にあるギャラリーとアーティストが一緒に成長できる環境があるといった意味のことを書いたが、その判断は間違っていた。公的なにおいが強いところほど価値判断の基準は大衆に近づいていく。3331のように不特定多数の来場者がある施設では、フラット化圧力などものともしない強い基盤を持たなければやっていくのは難しいと、今さらながら感じている。

posted by Junichi Chiba at 23:04| アート

2018年02月25日

ハックルベリー・フィンとスター・ウォーズ

米国の小説家、ヘミングウェーは「すべての現代アメリカ文学はマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』に由来する」と言ったが、文学だけでなくアメリカ映画の根っこにもまたこの小説があるのではないか。そんなふうに思ったのは、映画「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」を見た時期と、たまたま何十年ぶりかに『ハックルベリー・フィンの冒険』(西田実訳)を読み直した時期が重なったからだ。

小説の後半で主人公の少年はこんなことを言う。「あのね、ぼくがやりたかったのは、その冒険的なことなんですよ。たとえ首根っこまで血の海につかってでも」。これこそがこの作品のテーマだろう。無邪気な少年ハックは養子として住み始めた屋敷を抜け出し、逃亡奴隷を連れて逃げる旅を続けるが、冒険だから事前に計画はない。そして移動の途中、さまざまな経験をしながら成長していく。

映画「スター・ウォーズ」シリーズも『ハックルベリー・フィン―』同様、冒険の物語だ。旧三部作のルーク・スカイウォーカーの物語も新三部作のアナキン・スカイウォーカーの物語も、そして続三部作のレイのそれも砂漠で始まるが、それぞれ砂漠を離れて移動を始める。自分が何者であるかを知らない彼らは、行く先々で直感的な選択を迫られる。ハックが大人を信用していないように、アナキンもルークもレイも大人や師匠の言うことを聞かない。そして自分の身は自分で守る。

マーク・トゥエインが無神論者である一方、スター・ウォーズ生みの親のジョージ・ルーカスは神を信じているらしく、両者には相容れないところもあるかもしれないが、作品にはアメリカらしさとでもいった共通項が感じられてしまう。「スター・ウォーズ」の続三部作には逃亡兵のサブキャラクターが登場するのも興味深い。その名もフィンである。
posted by Junichi Chiba at 22:22| アート

2017年12月30日

「未来を抱きしめる」の意味

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アートの話ばかりなのに、どうして「未来を抱きしめる」っていうタイトルなのですかと、ある人に聞かれた。このブログのタイトルについての質問だ。よくぞ聞いてくれましたという感じだが、実はこのタイトルは自分で考えたものではない。別の人が考えたものを拝借している。とはいえ「それ、いいね」と選び取ったところに、私の考えが投影されている。

ブログを書き始めた5年半前、まだ「第4次産業革命」という言葉は聞かれなかったが、自動運転、人工知能(AI)、バイオなどのテクノロジーの急速な進歩の兆しが見えていた。それに対して既存の価値観(文化)が追いつかず、AIやロボットが人々の仕事を奪うのではないかとか、クローン技術には倫理的な問題があるのではないかという懸念が示されていた(もっと前から言われてはいたが)。今でもそうしたテクノロジーと文化のギャップは開きっぱなしであり、AIが人の仕事を奪うなどというのは、もはや現実の問題である。

新しく生まれたテクノロジーを活用するには、文化とフィットさせる作業が必要だ。それがない段階では法律をつくれないし、感情的な共感がない状況ではせっかくの技術の利用も進まない。民主主義の社会であれば、テクノロジーと文化のすり合わせの議論が必要であり、その議論の土台としてリベラルアーツ的な知識が求められている。そして、すり合わせの思考に刺激を与えるのがアートである。

私が主にアートとして考えているのは、デコレーション(装飾)でもなく、投資対象になるブランド品でもなく、社会の設計に影響を与えるアイデアを視覚化したものだ。言ってみればアートは、なぜ働くのか、なぜ生きるのか、といった人間存在の根本を探求するような思考にかかわるものである。そしてアーティストは(結果を問われる政治家とは違って)結果にこだわらず、自由に将来の姿を描いたり問いかけたり、人々の想像を刺激したりできる強みを持っている。

世の中はエンジニアリングなど応用科学だけでは動かない。未来の社会は複数の要因が複雑な化学反応を起こすことによって生み出されていく。その一つ一つを直視するのは面倒くさいが、やる価値はある。そして面白い。「未来を抱きしめる」とは、未来を引き寄せる、未来のことを考えるという意味である。
posted by Junichi Chiba at 19:40| アート