2019年02月03日

書体変われば声変わる

Ayaka Asano'A season for thinking about the tea you gave me'.jpg
文筆家、正木香子の講座「文字で声を聴く、書体で本を読む」(1月27日)に行ってきた。東京・江戸川区の書店「平井の本棚」で開かれた彗星読書倶楽部主催のイベントだ。正木は文字と出会ったときの感覚をつづったエッセイ『文字の食卓』(本の雑誌社)の著者である。書体に対して独特の感覚を持っていて、書体には味も色も音もあるという。だから、まったく同じ言葉でも、書体が変われば違う声が聞こえてくるのだそうだ。

実は少し前から、書体について勉強したいと思っていた。というのも、版画家、浅野綾花が銅版画に食品や雑貨の包み紙などを貼って刷るという技法を始めて、作品に文字を取り込んでいるからだ。書体に色や音があるとまでは思わなかったが、文字の表情が及ぼす影響をなんとなく感じてはいた。自分ではそれがなんなのかよくわからず、その辺りのモヤモヤをクリアにしたいという欲求があったかもしれない。

もちろん一回お話を聞いたくらいでわかるようなものではないだろうが、正木が繰り出す書体にまつわる話はどれも興味深かった。中でも驚いたのは(私の「受講動機」からは離れるのだが)高橋留美子の漫画『めぞん一刻』で、せりふの書体が使い分けられているという話だった。例えば、夫を亡くして気持ちの整理がつかないでいる響子さんが、夫を忘れるかもしれないと初めて意識する場面。正木によると、あるモノローグの書体だけが微妙に変わっている。

学生時代にこの漫画を読んでいたはずだが、同じページで同じ人物のせりふの書体を変えるという手の込んだことをやっていたとはまったく気づいていなかった。それだけに、今知らされると、感動ものだ。作者(と編集者)には、「きっと読者には伝わる」なのか「いつか、だれかに届く」なのか、いずれにせよ読者への強い信頼があった。昔、古本屋さんに売ってしまった『めぞん一刻』を買い戻したいとさえ思えてくる。画像は浅野綾花「君と紅茶の季節」(2015年、銅版画、シンコレ、76.1 x 61.1 cm)。
タグ:浅野綾花
posted by Junichi Chiba at 19:22| アート

2018年07月16日

レフェリーの誕生

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ART OSAKA 2018の会場にいたら、早大ラグビー部出身の木應光さんにお会いして「論文」をいただいた。タイトルは「コーチング再考 忘れられたラグビーの原点」である。A4で18枚。多くの知識を得られたが、思わず膝を打ったのは、ラグビーが始まったころ、レフェリーはいなかったという部分だ。

論文を読んだ上での私の解釈は以下の通りである。フットボールと名のつく競技の中でも、ラグビーはすべての選手が手を使えるため暴力性が高い。だからこそ、すべての選手にスポーツマンシップ、ジェントルマンシップが求められる(ラグビー発祥国の英国で、今でもラガーマンが尊敬される理由はここにある)。反則をしてでも勝とうとか、卑怯なことをしてでも自分が優位に立とうという選手がフィールドにいてはいけない。

しかし「ジェントルマンが反則を犯すはずがない」とはいっても、人間の心は弱く、つい汚いこともしてしまう。そこで選手たちは、見識のある第三者にレフェリーを依頼した。選手自ら心の弱さを自覚し、何かあったら笛を吹いてくださいと、お願いした。頭を下げて頼んでいるのだから、レフェリーには感謝するのが当然であり、木さんは「レフェリーに文句を言ったり罵声を浴びせたりするのはもってのほか」といったことを書いている。野球場でありがちな「審判、どこ見とんじゃ」的な観客の野次もそぐわないというわけだ。

興味深いのは、野球のアンパイアは単なる(プレー上の)事実の判定者に過ぎないが、ラグビーのレフェリーは試合の裁定者であるという木さんの指摘である。もし野球の審判が「レフェリー」であれば、試合の行方そのものを任されるため、打球が本塁打かファウルかでもめて、一方のチームが試合のやり直しを求めるといったことは起こりえない。同じスポーツでも、性格は異なっている。

ちなみに、サッカーからラグビーが生まれたのではなく、ラグビーからサッカーが生まれたのだそうだ(画像はART OSAKA 2018の橘画廊展示風景)。
posted by Junichi Chiba at 12:52| アート

2018年07月04日

ネオ・コスモグラフィアとは何か

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千葉麻十佳が栃木県立美術館の企画展「ウェザーリポート」(8月26日まで)に参加している。山本和弘同館シニア・キュレーター渾身の企画で、出展作家はヨーゼフ・ボイス、ロバート・スミッソンらスーパースター級を中心に32人。その中で千葉は映像インスタレーションの「Melting Stone」(2017年、4分1秒)を含め3点を出品している。

企画展のサブタイトルは「風景からアースワーク、そしてネオ・コスモグラフィア」。キーワードのネオ・コスモグラフィアは山本学芸員の造語だ。コスモグラフィア(Cosmographia)という聞き慣れない横文字の頭にネオ(新しい)という言葉がついていて、なんとなく現代的で国際的なニュアンスがあるから、広告代理店的なキャッチコピーだと思われかねないが、このキーワードには本質がある。

展覧会図録から要点を抜き出せば、このキーワードの成り立ちはざっと以下の通りだ。まず15世紀末に、ギリシャ語起源のコスモグラフィアという言葉が生まれた。それは「天とのかかわりにおいて地球を見るもの」、垂直的眼差しとかかわるものであったが、地図と混同されてしまい、やがて歴史に埋もれてしまった。美術との接点を持つこともなかった。

一方、16世紀末のオランダではLandscharp(英語ではLandscape、風景)という言葉が誕生した。こちらはもともと風景画を指していた。直立した人間が水平的眼差しで描いた絵画がその典型であり、こうした絵画が定着した後に「風景」という概念が生まれたと、図録は説明している。つまり画家が生み出した眼差しが人々の空間の見方を規定した。

ともに空間とかかわる概念でありながら、すっかり忘れられてしまったコスモグラフィアと、いまも市民権を得ている「風景」の運命は対照的である。ところが人間のものの見方は不変ではなかった。ヘリコプターや航空機、天体望遠鏡、人工衛星など科学技術の進歩とともに視線が変わった。そして水平的な眼差しと垂直的な眼差しが交差しつつ、新たなコスモグラフィア=天地両映像が生まれてきたというのが山本論文の主旨である。

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「ウェザーリポート」展では、そうした趣旨に沿って69点が並んでいる。核といえるのはやはりロバート・スミッソンの映像作品「スパイラル・ジェッティ」(1970年、34分58秒)だろう。湖に築いた巨大な突堤をヘリコプターから撮影した同作品には地表へのベクトルがあるが、「水面に太陽を写し込むことによって『宇宙画』としてのコスモグラフィアを約五世紀ぶりに成立させている」(同論文)。同学芸員によると、日高理恵子の絵画「樹を見上げて」なども天と地の双方向を志向する作品だ。

そして展覧会場の最後で天井近くから床面に投影された千葉麻十佳「Melting Stone」にも、「スパイラル・ジェッティ」と同様のコンセプトを見出すことができる。太陽光で岩石を溶かす過程を撮影した、この作品は地下のマグマを暗示するとともに光という形で太陽を写し込み、天と地双方向のベクトルを持たせているからだ。コンセプトなしでも見たものを共有できるのならそれでよいのだが、個々のコンセプトを思わず聞きたくなる展覧会である。
posted by Junichi Chiba at 23:31| アート

2018年06月03日

「工芸」打破する仮設展示

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巨大で有機的な物体のうねりを舐めるように見ながら、ゆっくりと階段を下りた。菊池寛実記念 智美術館(東京・港)の地下展示室につながる螺旋階段に、高さ7mの竹の立体が展示されている。四代田辺竹雲斎のインスタレーションだ。東京の美術館で竹工芸の展覧会が開かれるのは33年ぶりと聞いていたが、「竹工芸」という言葉から想像していたイメージがいきなり吹き飛んだ。

面取りした竹ひごを編んでいくだけで、これだけの躍動感が生まれるものだろうか。3本の幹のようなものが絡み合い、空へと向かっていくイメージは工芸の領域を超えているように思える。階段を十分に下りた位置から見上げると、天井の光が透けて、何かしら崇高なものが感じられるのだ。自然の中ではなく、都会のビルの中だというのに、一瞬、われを忘れて見とれてしまった。

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田辺竹雲斎のインスタレーションを生で見るのは、正木美術館の正木記念邸(大阪府忠岡町)を訪問したとき以来6年ぶりだった(当時は田辺小竹)。そのときは和室に和の雰囲気の作品があるといった印象だったが、今回は違う。作品と建物の素材感が異なり、コントラストが強烈だ。一カ所から全体像をつかめないため、見る位置を変えるたびに心が騒ぐ。ほかの場所では再現できないだろうから、今見ておこうという切迫感もある。

展覧会のタイトルは「線の造形、線の空間 飯塚琅玕齋(ろうかんさい)と田辺竹雲斎でめぐる竹工芸」(7月16日まで)。東京を拠点にする飯塚琅玕齋と大阪・堺が拠点の田辺竹雲斎の2つの家系の7人の作品によって、大正から現在までの竹工芸の流れをたどるのが趣旨である。緻密に組み立てられた作品もあれば、素朴な趣を生かした作品もあり、表現の幅広さがうかがえたが、導入部のインスタレーションを見たことで「竹工芸」の見方が変わらざるを得なかった。
posted by Junichi Chiba at 17:38| アート