2019年09月12日

パリのメトロ

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パリのメトロ(地下鉄)の駅で乗車券を買った。料金は1人1.9ユーロ、2人分で3.8ユーロである。タッチパネル式の券売機を操作し、20ユーロ紙幣を入れた。計算上、おつりは16.2ユーロだから、切符2枚のほかに、10ユーロ紙幣1枚と硬貨数枚が出てくるだろうと思っていた。ところがスロットマシンで大当たりしたかのように、ガチャン、ガチャン、ガチャンと、コインがあふれ出さんばかりに落ちてきた。その数約30枚。

出てきた硬貨をかき集めて小銭入れにしまおうとしたが、入りきらない。仕方なく、一部はズボンのポケットに突っ込んだ。釣銭として紙幣の用意がないのだとしても、16ユーロ分は2ユーロ硬貨なら8枚、1ユーロ硬貨でも16枚である。なぜ50セントなどを交ぜて硬貨を30枚も出してくるのか、現金を使う人への嫌がらせなのか。事情がわからないまま、次回から券売機で切符を買うときはクレジットカードを使うことに決めた。

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そして3時間後、再びメトロに乗る機会がやってきた。クレジットカードで切符を購入するという決意は揺るがぬまま、券売機に向かった。先客は外国人旅行者一組(4人)だけである。彼らはパリ郊外に行こうとしていたらしかったが、機械の操作に手間取っていて、時間が過ぎるばかりだった。私はパリ市内の切符しか買ったことがなく、切符の買い方を教えてあげようにも教えてあげる自信がなかった。乗り越し精算という仕組みがないから、間違ったことを教えると後で大変なことになってしまうという気持ちが先に立った。

自分が切符を買うところを参考までに見せる手はあるのかもしれない。しかし相手は4人で、こちらは1人。財布からクレジットカードを取り出すところを見られるのは嫌だし、暗証番号を入力するところを見られるのも嫌だ。結局、私の後ろに並んだフランス人がいらいらし出したので、4人はいったん切符の購入をあきらめた。私はすかさずクレジットカードで自分の切符を買い、その場を立ち去った。

駅員がいてくれればとは思うが、パリのメトロの改札はすべて無人だ(駅によっては有人の切符売り場ならある)。ホームにも駅員はいない。東京の地下鉄では、乗客が駅員を殴る事件がときどき起こるが、パリのメトロには駅員がいないのだから、そうした事件は起こらないだろう。ある意味、駅員にとっての防犯は徹底している。と同時に、乗客は自分で自分の安全を守れと言われているような気がしないではない。釣銭として紙幣を出さないのは、何かあったときの被害を少なくしてあげようということなのだろうか。
タグ:パリ
posted by Junichi Chiba at 21:43| 日記

2019年09月03日

バルサの自己主張

米国の政治記者、フランクリン・フォアがサッカーを題材にグローバル化の問題を論じた『サッカーが世界を解明する』(伊達淳訳)は読みごたえのある本だ。十数年前に初めて同書を読んだときは、サッカー界の差別の実態に衝撃を受けた。著者が「人種差別と手を切れないクラブ」として、パリ・サンジェルマン、チェルシー、グラスゴー・レンジャーズ、レッドスター・ベオグラードなどの実名を挙げていたからだ(「イタリアのクラブの半分」も入っていた)。

差別は人種だけでなく宗教ともからむ。かつて中村俊輔選手が所属したセルティックのライバル、レンジャーズは「選手から守衛にいたるまでプロテスタント限定という方針を制定していた。そしてその方針は、厳しくなる一方だった。カトリック教徒と結婚した者が重役に昇進することはなかった。レンジャーズは自ら悪質なプロテスタント政策の拠点となることを選択した」。昔の話なのかもしれないが、こうした話を読んで、サッカークラブの経営はきれいごとではすまないのだなと思ったのはたしかだ。

久しぶりに同書を読み直しても、そうした差別に関するエピソードには重苦しい感想を抱かざるをえない。しかし一方で、十数年前に読み落としていた部分があったことに気がついた。それはバルサ(FCバルセロナ)に関する記述だ。著者のフォアは「バルサはこうした『空白部分』を見事に埋めている。クラブとしての歴史の中で控えめな部分は維持しつつ、洗練された自分たちを主張してきた」と指摘している。

フォアによれば、バルサ博物館にはダリやミロの絵画もあり、「正門を出たところには、ドナルド・ジャッドのようなミニマリズムから新未来派まで、幅広い現代彫刻が展示されている」。そしてバルサは「クリーンな自分たちを証明するために、基本は商業ベースだとしても本来はもっと崇高な精神で運営しているんだということを強調しようと」し、「ユニフォームの胸部に広告を載せていない」と記している(今はバルサも広告を載せている)。

これらが事実だとして、今疑問に思うのは、なぜバルサが洗練された自分たちを主張し、崇高な精神を強調したのか、ということだ。著者も指摘するように、ユニフォームの胸部に広告を載せないことは他のクラブへのあてつけである。それができたのは、バルサにはある意味、サッカー界の主流ではないという感覚があって、それゆえ、腐敗したサッカー界の現実を避けることが有効な戦略だったのではないか。

ダリにもジャッドにも直接関係はないが、アートはしばしば、現実を塗り隠すのにも使われる。人種差別やナショナリズムが現実だとすれば、それらを塗り隠すこともまた現実だ。
posted by Junichi Chiba at 23:04| 日記

2019年07月15日

ナポレオン生誕250年

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今年はナポレオンの生誕250年である。どこかでそうした情報に触れていたからか、新聞や書籍で「帝国」「皇帝」といった文字を見ると、ナポレオンのイメージが浮かんでくる。征服精神にあふれたナショナリスト、あるいは武力行使をいとわない強力な指導者のイメージだ。ロシアのプーチン大統領やトランプ米大統領にもそうしたイメージがかぶる。

プーチンやトランプが政治家として人気があるのだとしたら、それはナポレオン的なリーダーが人々に求められていることの証左だろう。「ナポレオン」は伝説的なキャラクターであるだけに、そのイメージは実世界と架空の世界を行ったり来たりしながら膨らんできた。実際、ユゴー、バルザック、スタンダール、トルストイら文学者は、ナポレオンから大きな影響を受けている。ナポレオンを否定することさえナポレオンのイメージを強化した。

文学だけではない。映画「スター・ウォーズ」のダース・ベイダーにもナポレオンのイメージがある。ダース・ベイダーが仕える帝国は一貫して邪悪な存在として描かれているが、主人公のルーク・スカイウォーカー(共和国側)がどれだけ活躍しても、観客をひきつけるのはダース・ベイダーだ。本編ではない「ローグ・ワン」でさえ、彼が一番目立っていた。ナポレオン的なキャラクターは時代が変わっても古びていない。

150年以上前、そのナポレオンに挑んだ作家がいた。フランスの小説家、ユゴーである。ユゴーは『レ・ミゼラブル』で、ナポレオンとは対照的な人物としてジャン・ヴァルジャンを描き出した。2人は同じ1769年生まれだが、ナポレオンが権力志向の誇大妄想的な軍人だとすれば、ジャン・ヴァルジャンは悪事を働くものの根は善良な市民である。ユゴーはナポレオンを乗り越えたかったらしく、『レ・ミゼラブル』を翻訳した西永良成の言葉を借りれば、ジャン・ヴァルジャンを何度もイエス・キリストになぞらえている。

しかし今、ジャン・ヴァルジャンが、同い年のナポレオンほど人気があるだろうか。尊敬できる人間でも大衆受けするとは限らない。現代人から見れば、ダークサイドの魅力という点で、ナポレオンやダース・ベイダーに分があるだろう。ジャン・ヴァルジャンは純粋過ぎるのかもしれない。悪魔的な激情とクールな知性が同居するナポレオン的なキャラクターの魅力は今も強い。
posted by Junichi Chiba at 21:33| 日記

2019年02月12日

風の系譜

日本の文学には「風の系譜」があると、国文学者の三木紀人先生(お茶の水女子大名誉教授)から聞いた。鴨長明などの中世文学から夏目漱石、堀辰雄らを経て宮崎駿へとつらなる系譜があるという。それを聞いたとき、えっ、宮崎駿? 文学の作家ではないですよねと思わないではなかったが、考えてみれば宮崎駿ほど風の作家と呼ぶにふさわしい人はいない。

『風の谷のナウシカ』の主人公は「風使い」だし、『となりのトトロ』でも『魔女の宅急便』でも、大事な場面で風が吹く。そして最後の作品のタイトルは堀辰雄の小説と同じ『風立ちぬ』である。その『風立ちぬ』は零戦の設計者、堀越二郎をモデルに、青年技師とヒロインの出会いを描いた作品だ。これだけでも宮崎を「風の系譜」に位置づけるのは自然なことと思える。しかし三木が挙げる理由はそれだけではなかった。

堀辰雄はポール・ヴァレリーの詩の一節を古語で「風立ちぬ、いざ生きめやも。」と訳した。フランス語の原文は「生きなければならない」だが、堀の訳を現代語にすると「生きるのかな、いや、生きられないよな」という意味にとれるため、誤訳だともいわれている(丸谷才一が堀辰雄の誤訳だと批判した)。そうした中、アニメ映画『風立ちぬ』のポスターでは「生きねば。」と記された。これはどういうことだろう。宮崎駿は堀の「誤訳」をすっ飛ばして、ヴァレリーの詩を直訳したのだろうか。

これは解釈の問題なので、そうとも言えるが、そうではないとも言える。三木によると、堀の「いざ、生きめやも。」は「生きたい、死にたい、自信がある、自信がないといった、まったく違う心のありようが振れて振れて振れまくり、ならされていくさま」を表している。だとすれば、堀の文は、風が吹いて感情の変化が起きている過程に重点を置き、アニメ映画のポスターの方は感情がならされた結果(「生きねば。」)を書いたと読むことができる。つまり根っこは同じということだ。

風の系譜の作品の中では、登場人物たちは風が吹くことによって前向きな気持ちを抱いたり立ち直りのきっかけをつかんだりしている。その点を踏まえて三木は「宮崎駿は知性、感性の面で堀辰雄と結びついている」と説明している。私にとって、この説はとても新鮮だった。こうした話を聞いた後では、アニメが娯楽を超えた感興をもたらしてくれる。
posted by Junichi Chiba at 22:27| 日記