2020年01月22日

スター・ウォーズの原則

映画「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」を見た。シリーズ9作目にして完結編である(これで番外編の「ローグ・ワン」と「ハン・ソロ」を含め、すべてを劇場で見ることができた)。自由奔放なイマジネーションが魅力の作品だから、深刻な顔をして見ているわけではないが、それでも「スター・ウォーズ」を見るたびに学び、確認していることがある。それは人間の感情がいかに大切か、ということだ。

アナキン・スカイウォーカー(ダース・ベイダー)もルーク・スカイウォーカーも、そして新三部作のレイも、シリーズの主人公たちは皆、非凡な英雄でありながら苦悩を抱えている。そして苦悩を見透かすパルパティーン皇帝はかつてアナキンをダークサイドに転向させたように、レイに皇帝の座に就くよう強制する。こうした場面で登場人物が激情に駆られてやり合うところは、いかにもスター・ウォーズといった感じだ。

主人公たちは物体を宙に浮かせたり遠くにあるものを感じ取ったりするフォースを持っている。フォースを磨き上げる術はヨーダからルーク、ルークからレイへと伝えられたが、後の世代ほど能力の向上は早い。ヨーダとルークが合わせて900年以上もかけて蓄積した知識(ヨーダは享年900歳)をレイはまとめて受け継ぐことができたからだろう。

しかし、その怪物的な能力に感情のコントロールが追いつかない。皇帝に歯向かうべきか、それとも従うべきか。「ジェダイの復讐」(1983年)でルークが直面したのと同じ苦しみがレイを襲ってくる。新作でも「ジェダイの復讐」のクライマックスと同様、過剰なほどのエネルギーのぶつけ合いが演じられ、まるで歌舞伎のようだった。歌舞伎でなければシェイクスピアなどのバロック劇である。

すでに肉体が死んで魂だけが残っている皇帝は覚醒したレイの体を乗っ取ろうとするが、レイはそれを許さない。皇帝を阻んだのは若いレイと(悪役だったはずの)カイロ・レンの中から湧いてきた感情だった。人にとって肉体は重い荷物ではあるが、生身の体から生まれる感情が人の命を救うこともある。死んでいる者はその点で、生きている人間にかなわない。生と死が不可分なバロック劇だからこそ浮かび上がるテーマだ。

実は、レイを救済するのはドロイドのR2-D2かBB-8ではないかと、50%くらいの確率で予想していたのだが、その予想ははずれてしまった。人間が選択し、決断するというスター・ウォーズの原則を超えることは、やはりなかったのである。
posted by Junichi Chiba at 22:41| 日記

2019年12月30日

「恋する惑星」と飛行機

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四半世紀前、ウォン・カーウァイ監督の映画「恋する惑星」(原題:重慶森林、1994年)を初めて見たときに、アジアにもこんなスタイリッシュな映画があるのかと、新鮮な印象を受けた。中国への返還まであと3年という微妙な時期の香港を舞台に、若い男女のすれ違いと独特の都会的な雰囲気を描いた作品だ。今も作品の印象は変わっていない。ただ、この映画に関しては長年、ある疑問を抱いていた。今年、香港のデモ隊が空港を占拠した映像を目にしたとき、その疑問が解消された気がした。

私が抱いていた疑問は、「恋する惑星」の中で、主人公の警官(トニー・レオン)と、彼に恋する飲食店員のフェイ(フェイ・ウォン)がミニチュア飛行機で遊ぶシーンが頻繁に出てくることだった。ミニチュア飛行機のシーンばかりでなく、本物の飛行機が空を飛ぶカットもあり、飛行機の出現頻度がかなり高いのである。これについて私は、返還で失われるかもしれない自由をいとおしむ意味があるのだろうと、ひとまず解釈していた。この解釈には自信がないから、疑問が残ったままだった。

しかし今年夏、デモ隊が空港の入口付近で警官隊と衝突した場面をテレビで見たとき、ある仮説が浮かんできた。それは、ウォン・カーウァイは香港という街全体を空港としてとらえていたのではないか、というものだ。これは直感的なものであって、たいして論理的ではない。とはいえ、そう考えると、ミニチュア飛行機で遊ぶシーンや「別の飛行機の着陸に備えて(部屋を)大掃除をした」といったセリフが納得できるのである。

香港の本質は空港あるいはトランスファー(乗り継ぎ)の中継地なのではないか。映画のラストで、フェイはトニーに「どこ行きたい?」と聞き、トニーは「君の行きたいところへ」と答える。25年前には甘ったるいセリフだなと思ったが、このセリフは香港の街角だからこそ輝いてくる。どこかへ行きたい人が立ち寄り、時間を過ごすところが香港なのだ。
posted by Junichi Chiba at 18:55| 日記

2019年12月15日

ファーウェイと李白

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今年一番注目した企業は中国の通信機器大手、華為技術(ファーウェイ)である。1月初め、郭平輪番会長の年頭所感を読んだのがきっかけだった。郭会長は「風に乗り波をかき分けられるようになる時が必ずやってくる」という李白の詩で所感を締めくくっていた。もちろん日本企業のトップも年頭所感を発表するが、古典から言葉を引いているのを見たことがない。ハイテク企業のトップが古典文学の力を借りているのが私には興味深かった。

同会長が引用したのは、李白の「行路難」の一部である。原詩は「長風破浪會有時」。読み下せば「長風浪を破るにかならず時有り」。原詩ではこの後、「直挂雲帆濟滄海(直ちに雲帆をかけて滄海をわたらん)」と続く。「行路難し」というタイトルでありながら威勢がよく、従業員の士気を鼓舞するのにふさわしい。

そして、この詩を含む年頭所感が、ただの「あいさつ」にとどまらないのが同社のすさまじいところだ。米国のトランプ政権がファーウェイを目の敵にして圧力をかける中、同社の今年1〜9月期の売上高は6108億元(約9兆3500億円)に達した。前年同期比で24%も増加し、日本の大手企業がまったく追いつけないスピードで成長を続けている。郭会長の年頭所感のタイトルは「苦難なくして、栄光は果たせない」。その言葉通り、米国が圧力をかければかけるほど、同社は強くなっている。

こうした状況をみて、一つの仮説が頭に浮かんだ。――中国にあって米国にはないもの、それは文学、思想、歴史の古典である。李白や杜甫の詩、『論語』『史記』などは中国の文化力のかたまりだ。それらは経営者にとって、強烈な意志を伝え仲間を統合するためのソフトウエアでもある。このソフトウエアが厳しい局面で効果を発揮しているのではないか。だとすれば日本企業もファーウェイにならい、古典を活用すればよい。

しかし、ここまで考えたところで、この仮説はあっさり行き詰まってしまった。中国古典文学者の田口暢穗鶴見大学名誉教授と話す機会があり、あることに気がついたからだ。日本企業のトップは教養がないから古典の言葉を引用しないのではなく、そもそも引用できるような古典が日本にはないのである。おそらく多くの人にとってこれは盲点であり、引用しようと思わなければ気がつかないことかもしれない。

たとえば「祇園精舍の鐘の声」という書き出しで知られる『平家物語』のベースにあるのは仏教の無常観だ。「たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」といった調子では従業員を勇気づけることはできない。『平家物語』でなくても、「ほろび」や「あはれ」の思想で士気を鼓舞するのは難しい。日本の古典は企業との相性という点で、中国の古典とは異なっている。古典がないという点で、日本の立場は米国に近い。
posted by Junichi Chiba at 23:22| 日記

2019年11月23日

10年たって読めた本

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長いこと読もう、読もうと思っていたが、読めずにいた本があった。石村博子著『たった独りの引き揚げ隊』だ。新刊として出たときに入手した本がどこかへ行ってしまい、文庫化されていたことも知らず、気がついたら10年がたっていた。読む気があったのかと言われても仕方がないが、このほど本(角川文庫)を買い直し、10年越しで読むことができた。そして、これがめちゃくちゃ面白かった。

1946年の秋、家族と離れた10歳の少年がわずかな食糧を持って満洲の広野を1000キロ踏破し、日本へと引き揚げる。その様子を記したノンフィクションだ。ストーリーはいたってシンプルで、困難を次から次へと乗り越えていく少年のたくましさが読みどころである。脚色があるのかもしれないが、一つ一つのエピソードもリアルで魅力的だ。

例えば民家から上る煙で民族を見分ける話。<遠くからでもまず目に入るのは、家から立ち上る煙だよね。煙の具合でロシア人がいるかどうかを判断するんだよ。独特の重たい感じの煙なら、牛糞や馬糞を燃料にしている中国人の家のもの。軽くてまっすぐ立っているものなら、白樺や石炭を燃やしているロシア人の家のもの。ロシア人は毎日かまどでパンを焼くから、住んでいたら必ずかまどの煙があがるんだ>

これは60年以上前の出来事を本人に語らせた記述だが、命がけで見れば煙の重さまで見分けがつくということに感心せざるを得ない。これから何度もこの本を読み直すことになるだろうと、今は思っている。

そもそも10年も読まなかった本をなぜ今読んだかといえば、昨年、文庫が再販された安部公房著『けものたちは故郷をめざす』(新潮文庫)と読み比べたかったからだ。名作として知られる『けものたち―』もまた、満洲に取り残された少年が独りで日本へ引き揚げる話である。小説とノンフィクションの違いはあるものの、ともに終戦直後の満洲を舞台にした冒険物語だ。しかし『けものたち―』には終始、暗い緊張感が漂っているのに対し、『たった独りの―』は明るさを失うことがない。

この本の中で一番好きなのは、極限状態に置かれた少年が赤茶けた大地を独りで歩き始める場面だ。

 違う世界に足を踏み入れたように思えた。守ってくれる人は誰もいない。
 吹く風が「どうする、どうする」と言うように、シャツの裾をバタバタとまくった。迷うことなどあるだろうか。
「行くところまで行こう。そうすりゃ何とかなるさ」

悲劇的なメロディーでも和音を変えれば明るく聴こえるということだろうか。著者の筆にも迷いがない。
posted by Junichi Chiba at 18:54| 日記