2020年06月28日

生命は大地から誕生した

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コロナの緊急事態宣言が出たころから、自宅で読書する時間が増えた。この3カ月で一番面白かった本はデヴィッド・W・ウォルフ『地中生命の驚異 秘められた自然誌』(長野敬・赤松眞紀訳)だ。20年近く前の本ではあるが、「生命は海ではなく大地から誕生した」という仮説が興味深い。「地中何千フィートという深さで酸素も光もない高温高圧の場所に繁栄する微生物の社会があった」という記述にはまさに驚いた。

「地下を生命のゆりかごとすることは、20世紀の大部分にわたって普及していた考え、つまり水分が蒸発して生命出現に適する『原初のスープ』となった浅い水溜まりの中とか、あるいは海水面の近くで生命が始まったとする考えに反していた。原初のスープという考えは、生命が『温かい小さな池』から生じただろうというチャールズ・ダーウィンの推測に端を発している。ダーウィンは1871年に、同僚の植物学者ジョゼフ・ドールトン・フッカーに宛てた私信にこのことを書いている。ただし彼はこの考えに確信を持っていたわけではなく、それを広めようとも考えなかった。それにもかかわらず、彼の後継者たちはこれをかなり真剣に受け取った」。こんな重要なことを私は20年近くの間、知らなかったわけだ。

しかし知らなかったのは私だけではない。今も人文系の学者が「地球上の最初の生命体は海中の単細胞生物だった」と書いているのを目にすることがある。「生命は海で誕生した」という考えはなかなかロマンチックだから、20世紀に定着したまま修正されていないのだ。宮崎駿の漫画『風の谷のナウシカ』で、主人公のナウシカは「すべては闇から生まれた」と言っているが、それは比喩ではないかもしれない。ウォルフの示唆が正しければ、生命は光を必要としなかった。

そして、ウォルフのこの本にはもう一つ驚きのポイントがある。それは、生命の系統樹という概念がひっくり返される可能性である。

「今では三つのドメインが大昔に分かれて、ほとんど独立して進化してきたのだろうと考えられている。しかし普遍的な系統樹の根元に近い部分では、それぞれのドメインの関係は入り乱れている。これら最古の単細胞生物は、縁の遠い生物の間で、ときにはドメインを超えて遺伝物質を『水平に』伝達できたからである。こうした原始的なレベルでは、1960年代の自由奔放な『フリーラヴ』フェスティバルのように遺伝物質が交換されていた。ただしそれは家庭向けの映画のようにセックス抜きの方法で行われた。それは『食べたもので自分が決まる』方法なのだ。傷ついた細胞から放出された遺伝物質が食物のようにして別種の活動的な細胞に取り込まれて、そのゲノムに組み込まれてしまうのだ」

三つのドメインとは、(真性)細菌、古細菌、真核生物である。要するに生命の系統樹は、一つの基部から枝分かれしていったツリー型ではなく、ネットワーク型だった可能性があると、ウォルフは指摘している。やはり『風の谷のナウシカ』第6巻で、セルムというキャラクターが「食べるも食べられるもこの世界では同じこと 森全体が一つの生命だから……」と言っている。たしかに、片方の遺伝物質が残るのではなく、遺伝物質が交換されるのだとしたら、食べるも食べられるも同じことだ。

もともと海にいたが、やがて地表に進出した緑色の藻のような生物は土壌菌類と共生し(菌類が水や養分を藻類に供給し、藻類は光合成の産物を菌類に供給した)、植物という形態で陸上に生き残ったという考えにも興味をひかれる。分子生物学や遺伝学の発展によって、これからさらに新しい事実が発見されるだろうという予感がわいてきた。そのときに、20世紀に定着した生命のイメージが変わるのではないか。
posted by Junichi Chiba at 18:09| 日記

2020年05月25日

始まりの舞台は砂漠

5月25日は映画「スター・ウォーズ」第1作の公開記念日だ(米国公開は1977年、日本公開は78年)。2年ほど前、久しぶりに会った大学時代のゼミの先生が、若いころ留学先のシカゴで「スター・ウォーズ」を見たときの感想を、きのうのことのように話してくれたことがあった。公開から40年以上たって、当時のことを含めて感想を言い合えるような作品はほかにはない。この映画の公開自体が社会現象だったと、腑に落ちた。

そんな作品だから、多くの人からさまざまな感想を聞いてはいるが、この42年間、語り尽くされていないと感じるテーマが一つある。それは「スター・ウォーズ」シリーズの中の砂漠だ。実は同じ感想を持つ人と会ったことがないのだが、私にとって「スター・ウォーズ」の原風景は宇宙空間ではなく砂漠なのである。農場で働くルーク・スカイウォーカーがドロイドのC-3PO、R2-D2と出会った砂漠だ。砂漠など見たこともないのに、スター・ウォーズのどの作品でも砂漠のシーンが出てくると、なぜか懐かしい感情が湧いてくる。

「シスの復讐」(2005年公開)あたりからは、ルークが育ったタトゥイーンはなぜ砂の惑星なのか、などと考えるようにもなった。かつては文明の発達した都市があったが、あるとき人口が増えすぎて崩壊したのだろうとか、森林破壊によって砂漠化が進んだのだろうとか、それくらいの想像である。砂漠の中に小さな街が点在しているのであれば、住民は農業だけでなく、交易で生計を立てていただろうと、考えたりもした(今も考えている)。

地球の歴史から類推すれば、このような地理的条件での交易品は奴隷だった可能性がある。作品中、ルークの父、アナキン・スカイウォーカー(ダース・ベイダー)とその母は奴隷だったから、さほど的外れな推測ではないだろう。さらに推測を重ねれば、続三部作の主人公レイの祖母も奴隷だったかもしれない。地球のオスマン帝国を例にとれば、歴代君主の母はほとんどが奴隷だからだ(王妃との間に子をなすと、王妃の一族が政治に介入してくるから、皇帝はそれを避けた。奴隷であれば親族はなく、いたとしても口出しはできなかった)。

映画の中では、銀河系の社会についての説明はほとんどないため、背景に関わるところは勝手な想像でしかないとしても、シリーズを見終えた今も、私にとってスター・ウォーズといえば砂漠の印象が強い。見捨てられたような砂漠の惑星で農場に縛られた青年のルークが「こんなところにいたくない」と思っていたからこそ、あてもないまま反乱軍に加わり、物語が動き出した。第1作が公開直後から大ヒットしたのも、始まりの舞台が豊かな森などではなく、美しいけれど過酷な砂漠だったからだと、個人的には確信している。
posted by Junichi Chiba at 20:33| 日記

2020年04月21日

「ナウシカ」の余韻は疑問形

宮崎駿の漫画『風の谷のナウシカ』全7巻を読み終えて3週間たつが、いまだに余韻が残っている。特に印象深いのは、「旧人類」の計画が生んだ「墓所の主」と主人公ナウシカがやり合うラストシーンだ。これは、光と闇が入れ替わっているものの、映画「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」で、レイとパルパティーンがやり合うシーンとも重なって、頭から離れない。

墓所の主「お前は危険な闇だ 生命は光だ」
ナウシカ「ちがう いのちは闇の中のまたたく光だ 
     すべては闇から生まれ闇に帰る
     お前たちも闇に帰るが良い」

結局、ナウシカは、汚れた世界を清浄な世界に作り替えようとする「旧人類」の計画をためらいもなく破壊する。巨神兵の活躍もあって痛快な場面なのだが、同時にというか、少し遅れて、ナウシカのこの行動は正しかったのか、これはハッピーエンドだったのか、という疑問も頭に浮かんでしまう。たしかにナウシカは無私無欲ではあるが、深い考えがあるわけではなく、たまたま巨神兵という最終兵器を手に入れた興奮状態のまま行動しているようにも見えるのだ。

マスクがなければ生きていけないような汚れた世界が「善」なのか。清浄な世界を取り戻そうとする「旧人類」の計画は悪なのか。人間離れした能力はあるものの社会的なコミュニケーション能力が欠如しているナウシカのような人物が独断で、というか直感で人類の未来を決めてしまってよいのか。そうした、さまざまな疑問が次々と湧いてくる。

もし、巨神兵を手に入れたのがナウシカではなく、もともと巨神兵をさがしていたトルメキア王国の皇女クシャナだったとしたら、こうしたラストシーンは生まれただろうか。クシャナは終始、冷静な人物として描かれている。幼いころから王位継承のライバルである兄弟たちとの血みどろの争いに巻き込まれているため、政治的なセンスも磨かれている。しかし、冷静であるからこそ、直感の勝負で「墓所の主」を倒すことはできなかったのではないか。

クシャナにはリーダーの資質はあるとしても、考えるよりも先に手が動くようなリーダーキラーのナウシカでなければ、「墓所の主」をたたき、「旧人類」の未来の希望をつぶすという行動はできなかったはずだ。だからこそ、ナウシカの行動は正しかったのかという疑問が寄せては返す波のように繰り返されるのである。
posted by Junichi Chiba at 20:08| 日記

2020年04月02日

戦いを否定しないナウシカ

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新型コロナウイルスの感染拡大によって東京都が外出自粛を求めた週末、自宅にこもって宮崎駿の漫画『風の谷のナウシカ』全7巻を二十数年ぶりに読んだ(昔はバラバラに読んだから、一気読みは初めてだった)。産業文明の崩壊から1000年後、主人公の少女ナウシカが世界の秘密を知るために旅をする物語である。ウイルスの感染拡大で気分が沈みがちなときに、この重苦しい漫画を7冊読み終わると、身も心もくたくたであった。

論語に「怪力乱神を語らず」という言葉があるが、漫画版のナウシカは「怪力乱神」だらけである。映画版はかなりディズニー寄りだが、漫画版には映画版のような軽やかさや明るさがない。廃墟、略奪、黒い森と穢れの民――。ねばねばの粘菌やら、ドロドロに腐った肉やらも頻出し、さわやかという言葉からはほど遠い。欲望も戦いも否定しないナウシカはむしろダークサイドのヒロインだ(巨神兵の母でもある)。

改めて7巻を通して読むと、正直、若いころは全体像をつかめていなかっただけでなく、重要な細部もかなり読み落としていたことがわかった。たとえば、土鬼(ドルク)という帝国の皇兄ナムリスは物語の展開に大きな影響を与えるキャラクターであると気がついた。第5巻の初め、ナムリスが皇弟に向かって発するセリフは印象深い。

「俺のおそれることはただひとつ この血を一度もたぎらせることなく終わることだ」
「管だらけになっても不死を願うお前とちがい 俺には帝国も死もどうでもいい」

このセリフには、宮崎駿の本音が表れているのではないだろうか。人工の生命であろうと自然の生命であろうと、生きようとして生きているものが生物であるという考え方だ。ナムリスは残酷で欲望のままにふるまい、一見、単純なキャラクターだが、「墓の主」や死者に奉仕するくらいなら死んだ方がましだと言わんばかりの態度が大きな問いを投げかける。それは、そもそもコントロールできないものが生物なのではないか、という問いだ。

こうした脇のキャラクターや細部が読めてくると、生命とは何かというテーマがはっきりと浮かび上がってくる。第7巻の終盤、ナウシカは「清浄と汚濁こそ生命だ」と主張し、ナムリスを上回る形で血をたぎらせるが、そうした狂気じみたシーンを違和感なく読めるのが、この作品の大きな魅力だ。読み終わった瞬間、何年かの時間をおいてもう一度読みたいと思わせる漫画である。
posted by Junichi Chiba at 20:50| 日記