2023年02月22日

何のために闘うのか

ボクシング映画を観るのが好きだ。当たりはずれがあるので、平均すると満足度は必ずしも高くないが、最近観た「ケイコ 目を澄ませて」(三宅唱監督)はジムの匂いまで伝えるような絵画的な陰影が魅力的で楽しめた。16ミリフィルムでこれほど繊細な表現ができるのかという意外感もあった。デジタルで撮影すると、照明に手間をかけない分、白や黒の部分がかえって平板になってしまったのかもしれない。

ボクシング映画では、練習や試合のシーンだけでなく、ボクサーの生活の場面にも興味をそそられる。たいていのボクサーはプロであってもボクシングだけでは食べていけないから、ボクシング以外に仕事を持っていて、日常生活の中で闘いが始まっているからだ。若いころのロッキーは取り立て屋、「ミリオンダラー・ベイビー」のマギーはウエイトレスだったが、「ケイコ」の主人公(岸井ゆきの)はホテルの客室清掃員である。

もう何十年も前のことだが、沢木耕太郎のノンフィクション『一瞬の夏』を読んで、プロボクサーの暮らしぶりに驚いたことがあった。元東洋ミドル級チャンピオンのカシアス内藤が再起を期し、東洋王座をかけた試合に向けてソウルに出発するその日の朝まで仕事をしていたというのだ。このノンフィクションによると、カシアス内藤は、生まれてくる子どものために安定した収入を必要としていて、トレーナーが仕事を休めと言っても聞く耳を持たなかった。このエピソードがプロボクサーの厳しさを物語っていた。

そうした環境はいまも変わっていないだろう。ボクサーは世界チャンピオンになれば高い収入を得る道が開けるし、所属ジムも潤うが、そうでなければ食べていくのも容易ではない。一蓮托生、勝てば天国、負ければ地獄。ジムとボクサーの関係はギャラリーとアーティストの関係と似ていると、つくづく思う。

ケイコはホテルの同僚に、「仕事とボクシングを両立させるなんてすごい」と言われる。しかし、ふとしたことからバランスを崩し、精神的に追い詰められていく様子は見ていて痛々しい。何のためにリングに上がって闘うのか。考えれば考えるほど、足がすくんでしまう。では、どうすればよいのか。監督は登場人物には何も語らせないが、言いたいことは映像から伝わってきた。人はテーマありきで闘うのではない。闘い続けていれば、テーマは後からついてくるのだ。
posted by Junichi Chiba at 13:18| 日記

2023年01月03日

「本を甘く見てはいけない」

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年末、隈研吾の建築を見たくて、角川武蔵野ミュージアム(所沢市)を訪れた。4階に上がり、「本棚劇場」でプロジェクションマッピングを見ていたら、「本を甘く見てはいけない」というセリフが聞こえてきた。その通り、本を甘く見てはいけない。「本」を「作品」と言い換えてもよいだろう。本であれ、アートであれ、作品は人間の精神に影響を与えるから、軽く見ることはできない。

この劇場を取り囲む本棚は高さが8メートルあるらしく、そこにデジタル映像を投映する演出はスペクタクルとして面白かった。そこに通じる展示室「ブックストリート」には、「日本の正体」「男と女のあいだ」などのテーマごとに、段違いの棚に本が並べられていて、見ていて飽きることがなかった。図書館としては、蔵書の数は知れたものだが、本との出会いが楽しめる。このフロアを見るだけでも2時間は欲しいと思った。

しかし、この建物の中で、ある意味で興味深かったのは、マンガ・ラノベ図書館に掲示されていた角川歴彦(角川文化振興財団名誉会長)の「ライトノベル宣言」である。その宣言は「永い人類の歴史の中で西洋が育んだハイカルチャーとしての芸術全般に、近年日本のコンテンツはサブカルチャーといわれながらも新風を吹き込んできた」とうたっている。ささいなことかもしれないが、コンテンツという言葉を使っているところに、出版社らしさというか、角川らしさを感じてしまったのだ。

この場合、コンテンツというのはライトノベルやマンガをはじめとするサブカル系の作品全般のことである。コンテンツと呼んでも作品と呼んでも、指し示すものは同じだ。ただしニュアンスは違う。コンテンツという言葉には、container(入れもの)に充てるために、複製可能な形態で作ったものというニュアンスがつきまとう。おそらくそこには、containerにはまらない作品は入ってこないのではないか。

この宣言を目にしたときに、桐野夏生の小説『日没』の中の主人公のセリフを思い出した。「コンテンツじゃない。作品だ。私が血と汗と涙で書いた作品だ。それをコンテンツだなんて呼ぶな。あんたらは、所詮コンテンツだから、あれは駄目だ、これは駄目だって言えると思ってるんだろう。そんなの間違っているよ」

コンテンツと作品はどう違うのか、桐野本人が説明しているわけではないが、『日没』という作品には作家の考えがにじみ出ている。つまり、多くの人に提供するために管理しやすくしたのがコンテンツであり、作品とコンテンツの間には微妙な一線があるという考えだ。私がこんなことを考えるのも『日没』という本を読んだからにほかならない。やはり本(作品)を甘く見てはいけないのだ。
posted by Junichi Chiba at 16:50| 日記

2022年11月07日

メキシコの記憶

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舞台上のスクリーンにフリーダ・カーロの絵が映り、高瀬アキのピアノの音が聴こえ始めたとき、三十数年前に訪れたメキシコの記憶がよみがえってきた。フリーダの絵には曇り空が描かれていたが、私が大学生のときに一度だけ足を踏み入れたメキシコの空も雲に覆われていたからだ。若いころに抱いた第一印象は中年になっても修正されず、いまでも私がメキシコらしさを感じるのは、曇り空が広がる陰鬱な街の風景なのだ。

もし最初に見たのが青い海であれば、それがメキシコの印象として残ったのだろうが、そうではなかった。先週、早稲田大学小野記念講堂で、小説家、多和田葉子とジャズピアニスト、高瀬アキのパフォーマンスを観ながら、三十数年前のあのイメージと何度も向き合うことになった。それは私にとって初めての海外旅行だったから、鮮烈な印象として記憶の底に残っているのだろう。音楽がそれを呼び覚ましたのかもしれない。

季節は春で、行き先はアメリカ西海岸。絵に描いたようなバックパッカーの一人旅であった。シアトルからバスでサンフランシスコ、ロサンゼルスへと南下し、サンディエゴにたどり着いた。Google MAPなどなかった時代である。メキシコとの国境が近いと聞き、歩いて国境を越え、ティファナに入った。入国審査はなかった。いつのまにか「向こう側」にいたという感じである。治安のことは何も知らず、いざとなったら野宿すればよいと、のんきに考えていた。

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驚いたのは、国境を挟んだ両国の経済格差である。建物を見ても一目瞭然で、空を覆う雲が重くのしかかってくるようだった。衣料品などを扱うお店を見つけて入ってみると、若い女性の店員が気さくに話しかけてきたので少しホッとした。ポンチョのような織物を勧められ、試着したが、買いはせず、代わりにキーホルダーを一つだけ買った。米ドルで払い、お釣りをペソで受け取った。途中、女性の兄らしき若者が出てきて、アントニオ猪木の話をしたことを覚えている。

店を出てしばらくしてから、カメラがないことに気がついた。あれっ、どうしたかなと思い、振り返ると、さきほど猪木の話をした若者がカメラを持って追いかけてきた。ポンチョを試着した後、店に置きっぱなしだったらしい。その後、どうやってサンディエゴに戻ったのか覚えていないが、アメリカに入ったときに「帰還した」という気分になった記憶がある。お店でお釣りとして受け取った硬貨はいまも手元に残っている。
posted by Junichi Chiba at 22:58| 日記

2022年08月20日

同業者の鋭い批評

米国の小説家、レイモンド・カーヴァーの短篇集『大聖堂』(中央公論新社、1990年)には、翻訳者である村上春樹自らが解説を寄せているが、これがなかなか読みごたえがある。もちろん12作品で構成する短篇集全体については「知情意の三拍子が揃った見事な出来」と絶賛しているのだが、たとえば『ビタミン』については「最後の部分の運びはいささか強引すぎる」、『注意深く』については「全体的な落ち着きはもうひとつ」と、手厳しい。

『保存されたもの』に関しては、「最後の部分へのもっていきかたは、カーヴァーの力からすればもう少しスリリングに書けたはずだ」と、ダメ出しに近いような指摘までしている。翻訳者が作品を隅から隅まで読むのは当然だとしても、読んだからといって弱点を指摘できるわけではない。小説家、つまり同業者である村上だからこそ、足りないところが手に取るようにわかったのだろう。

分野はまったく違うが、ビートたけしの『バカ論』(新潮新書、2017年)を読んでいたら、たけしが明石家さんまを批評しているくだりがあって面白かった。以下がその文章である。

「さんまは、しゃべりの天才。
それはもう突出した才能がある。テレビでトークさせたら、右に出る者はいないんじゃないか。反射神経と言葉の選択のセンスは凄い。
(略)
相手が科学者や専門家の場合、結局自分の得意なゾーンに引き込んでいくことはできるし、そこで笑いは取れる。でも、相手の土俵には立たないというか、アカデミックな話はほとんどできない。男と女が好いた惚れたとか、飯がウマいマズいとか、実生活に基づいた話はバツグンにうまいけど」

たとえば、さんまは数学者の外見や私生活に突っ込んで話を膨らませるのは得意だが、数学そのものの話はできないと、たけしは指摘している。数学者が政治家や音楽家であっても同じことだろう。たけしはさんまを教養なき天才≠ニ評し、「いかんせん教養がない。そこが限界かもしれない」と書いている。

バラエティー番組の視聴者が数学や政治の専門的な話を聴きたいはずもないだろうから、さんまはバラエティーに教養は不要と思っているかもしれないが、たけしの批評はさんまの笑いの本質を突いているのではないか。夏休みだから普段読まないジャンルの本を読もうと思って、ビートたけしに手を伸ばしたら、思わぬ収穫であった。評論家よりも同業者の批評は鋭い。ただし同業者を遠慮なく批評できる立場の人はあまりいないので、そうした批評に出合う機会は多くはなさそうだ。
posted by Junichi Chiba at 16:58| 日記