2012年10月25日

「福島第一原発神社」の続き

福島第一原発神社.jpg
建築家、宮本佳明の「福島第一原発神社」の話の続きである。

「水棺」を収めた原子炉建屋を1万年維持するには何らかの象徴構造が必要だと認めるとしても、原発を神として祀(まつ)ることには抵抗がある――。3月の個展のときには、そういった感想もあった。原発を信仰の対象にできるのか、という疑問である。

宗教哲学者の鎌田東二氏と宮本の対談で、鎌田氏は「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて畏(かし)こきもの」という本居宣長(江戸時代の国学者)の神の定義を紹介し、この定義に従えば原発神社ができる可能性はあるとの考えを示した。豊富なエネルギーを供給し、危険度も高い原発はまさに「尋常ならずすぐれたる徳のありて畏こきもの」である。

日本各地には、菅原道真の天満宮など怨霊神を鎮める神社があり、もはや人の手に負えない原発もこの流れにあるといえるかもしれない。ただ、対談での鎌田氏の発言は「可能性はある」という指摘にとどまっている。「たたりを起こさないようになだめる」といった日本人の思想をもってしても、原発を神として認められない可能性があるとすれば、従来の怨霊神と原発はどこが違うのか。これもまた核心に触れる問題である。

橘画廊で宮本の個展が始まった5日後の3月10日、作家、玄侑宗久氏と鎌田氏の共著『原子力と宗教』(角川oneテーマ21)が出版されたが、その中で鎌田氏はこう語っている。「怨霊や御霊を鎮めるためにつくられた神社にしても、何にしても、それはあくまでも生態系の循環の中でまわっているという前提のものだと私は思うのです。善なるものも悪なるものも、生命の大きな循環の流れの中にあるものだから、まつったり祈ったりする対象になる」。そして、生態系を壊しているものを神とみなしていいのかと問いかけている。

これに対し玄侑氏は「原子力は生態系の循環を逸脱している」と同意しつつ、もはや科学の領域だけでは語れないからこそ宗教的な視点で考える必要があると説いている。今度は、宗教が対象とするのは生態系の中だけなのかという疑問が出てこようが、こうした面でも、「福島第一原発神社」が大きな問題を提起していることがみえるだろう。

余談だが、『原子力と宗教』の中では、原発を「外から到来してきた一種のマレビトみたいなもの」とする鎌田氏のたとえも面白かった。タブーみたいなかたちにして外部化し、それを東電が電力の司祭のように一極支配したという見立てである。

11月9日午後6時から、喜多方市の大和川酒蔵北方風土館で民俗学者の赤坂憲雄福島県立博物館長と宮本の対談がある。
posted by Junichi Chiba at 21:54| アート