2023年01月18日

サヨナラ3331(下)

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前回、アートを取り巻く環境が大きく変わったと書いた。その中には社会の保守化も含まれているように思う。アーティストには新しい視覚や感覚を追求したり、社会の不平等や人間の抑圧に異議を唱えたりする人が多いのは事実だが、そういう人たちを歓迎するムードが薄れてきたのではないだろうか。現状はむしろ、伝統的な価値観を破壊する迷惑な人たちとみなす空気が強まっているのかもしれない。

橘画廊が3331を退去した2018年4月、「フラット化圧力」で以下の文を書いた。

この2年間、いろいろなことがあったが、一番印象に残ったのは2016年10月、千葉麻十佳展「The Melting Point; 石がゆらぐとき」に来られた年配の女性の「こういうの嫌い」「こういうの見ると、取り残された気分になる」という言葉であった。

「フラット化圧力」というタイトルが適切だったかどうかわからないが、6年以上たった今振り返っても、それはかなり突き刺さる言葉であった。初めから「嫌い」と公言している人に、何かを説明して理解してもらうのは無理であるとも感じた。コンセプチュアルアートみたいなものは気に入らない、そんなものはアートとして認められない、などと言われたら、もうどうしようもないのだ。(ただし千葉麻十佳の作品は2018年夏、ロバート・スミッソンやデイヴィッド・ナッシュらの作品とともに栃木県立美術館に展示されたので、アートとして認められない、というのは当たっていない)。

カート・ヴォネガットの小説『青ひげ』(1987年)には、登場人物が次のように語る場面がある。「現代美術は、ぺてん師や狂人や退廃した連中のしわざだ。それを真剣にとる人間がいまの時代におおぜいいる事実は、とりもなおさず、この世界が発狂したという証明さ。お前もこの見かたに賛成だろう」。アメリカでも日本でも、こうした考えの人は常にいて、その割合は時代によって変動しているに違いない。

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「3331によって、アートは『   』に変化した」展は2月5日まで開かれている。展覧会アーカイブのファイルには、ありがたいことに個別ギャラリーの展覧会記録もあった。橘画廊の3331での最初の展覧会は2016年5月、浅野綾花展「もう一度会ってから、グッバイね。」である。展覧会前日、大阪から深夜バスで来た浅野が重い荷物を背負って3331の階段を上ってきたのがきのうのことのようだ(「幕開けを実感するとき」)。
posted by Junichi Chiba at 13:50| アート