年末、隈研吾の建築を見たくて、角川武蔵野ミュージアム(所沢市)を訪れた。4階に上がり、「本棚劇場」でプロジェクションマッピングを見ていたら、「本を甘く見てはいけない」というセリフが聞こえてきた。その通り、本を甘く見てはいけない。「本」を「作品」と言い換えてもよいだろう。本であれ、アートであれ、作品は人間の精神に影響を与えるから、軽く見ることはできない。
この劇場を取り囲む本棚は高さが8メートルあるらしく、そこにデジタル映像を投映する演出はスペクタクルとして面白かった。そこに通じる展示室「ブックストリート」には、「日本の正体」「男と女のあいだ」などのテーマごとに、段違いの棚に本が並べられていて、見ていて飽きることがなかった。図書館としては、蔵書の数は知れたものだが、本との出会いが楽しめる。このフロアを見るだけでも2時間は欲しいと思った。
しかし、この建物の中で、ある意味で興味深かったのは、マンガ・ラノベ図書館に掲示されていた角川歴彦(角川文化振興財団名誉会長)の「ライトノベル宣言」である。その宣言は「永い人類の歴史の中で西洋が育んだハイカルチャーとしての芸術全般に、近年日本のコンテンツはサブカルチャーといわれながらも新風を吹き込んできた」とうたっている。ささいなことかもしれないが、コンテンツという言葉を使っているところに、出版社らしさというか、角川らしさを感じてしまったのだ。
この場合、コンテンツというのはライトノベルやマンガをはじめとするサブカル系の作品全般のことである。コンテンツと呼んでも作品と呼んでも、指し示すものは同じだ。ただしニュアンスは違う。コンテンツという言葉には、container(入れもの)に充てるために、複製可能な形態で作ったものというニュアンスがつきまとう。おそらくそこには、containerにはまらない作品は入ってこないのではないか。
この宣言を目にしたときに、桐野夏生の小説『日没』の中の主人公のセリフを思い出した。「コンテンツじゃない。作品だ。私が血と汗と涙で書いた作品だ。それをコンテンツだなんて呼ぶな。あんたらは、所詮コンテンツだから、あれは駄目だ、これは駄目だって言えると思ってるんだろう。そんなの間違っているよ」
コンテンツと作品はどう違うのか、桐野本人が説明しているわけではないが、『日没』という作品には作家の考えがにじみ出ている。つまり、多くの人に提供するために管理しやすくしたのがコンテンツであり、作品とコンテンツの間には微妙な一線があるという考えだ。私がこんなことを考えるのも『日没』という本を読んだからにほかならない。やはり本(作品)を甘く見てはいけないのだ。