もう20年も前の作品ではあるが、柳広司のミステリ『新世界』の冒頭で、アーティストを名乗る活動家の行為がこんなふうに描かれている。いま、アートテロという言葉を見たり聞いたりして思い浮かべるイメージも、大体そのようなものではないだろうか(柳自身はアートテロという言葉を使っていない)。あえてアートテロ(それが用語として定着しているわけではないが)を定義すると、何らかの主張があって、アートのようなものを手段として他人を脅かす行為、といったところだろう。
しかし2週間ほど前、ニュースのまとめサイトを見ていたら、アートテロが少し違う意味で使われていた。そのサイトが紹介していたのは、ロンドン・ナショナルギャラリーで、環境活動家2人がゴッホの「ひまわり」にトマトスープを投げつけた、という記事である。アートを手段としたテロというよりも、アートを標的としたテロというわけだ。手段であれ標的であれ、アートが絡む迷惑行為をアートテロと呼んでも差し支えないだろうか……。
と、ここまで考えて、原子力発電所の壁に落書きする行為(フィクション)と美術館で展示中の名画に食品を投げつける行為には共通点があることに気がついた。それは、一般の人にはたいして恐怖を与えないということだ。「ひまわり」にトマトスープをぶちまけた環境活動家がだれを敵対者として想定しているのかは不明だが、政治的な行為にしては、まったく勝算がなさそうである。
これらは本物の武装テロなどと違って、一般の人を恐怖に陥れることはないため、初めから効果を上げる見込みがない。失うものがない人たちが他人の迷惑を顧みずに行っている自己表現、と思われるのが関の山ではないか。だとすると、アートが手段であっても標的であっても、それが絡む迷惑行為をテロと呼ぶこと自体、無理があるだろうと思えてくる。
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