2022年08月20日

同業者の鋭い批評

米国の小説家、レイモンド・カーヴァーの短篇集『大聖堂』(中央公論新社、1990年)には、翻訳者である村上春樹自らが解説を寄せているが、これがなかなか読みごたえがある。もちろん12作品で構成する短篇集全体については「知情意の三拍子が揃った見事な出来」と絶賛しているのだが、たとえば『ビタミン』については「最後の部分の運びはいささか強引すぎる」、『注意深く』については「全体的な落ち着きはもうひとつ」と、手厳しい。

『保存されたもの』に関しては、「最後の部分へのもっていきかたは、カーヴァーの力からすればもう少しスリリングに書けたはずだ」と、ダメ出しに近いような指摘までしている。翻訳者が作品を隅から隅まで読むのは当然だとしても、読んだからといって弱点を指摘できるわけではない。小説家、つまり同業者である村上だからこそ、足りないところが手に取るようにわかったのだろう。

分野はまったく違うが、ビートたけしの『バカ論』(新潮新書、2017年)を読んでいたら、たけしが明石家さんまを批評しているくだりがあって面白かった。以下がその文章である。

「さんまは、しゃべりの天才。
それはもう突出した才能がある。テレビでトークさせたら、右に出る者はいないんじゃないか。反射神経と言葉の選択のセンスは凄い。
(略)
相手が科学者や専門家の場合、結局自分の得意なゾーンに引き込んでいくことはできるし、そこで笑いは取れる。でも、相手の土俵には立たないというか、アカデミックな話はほとんどできない。男と女が好いた惚れたとか、飯がウマいマズいとか、実生活に基づいた話はバツグンにうまいけど」

たとえば、さんまは数学者の外見や私生活に突っ込んで話を膨らませるのは得意だが、数学そのものの話はできないと、たけしは指摘している。数学者が政治家や音楽家であっても同じことだろう。たけしはさんまを教養なき天才≠ニ評し、「いかんせん教養がない。そこが限界かもしれない」と書いている。

バラエティー番組の視聴者が数学や政治の専門的な話を聴きたいはずもないだろうから、さんまはバラエティーに教養は不要と思っているかもしれないが、たけしの批評はさんまの笑いの本質を突いているのではないか。夏休みだから普段読まないジャンルの本を読もうと思って、ビートたけしに手を伸ばしたら、思わぬ収穫であった。評論家よりも同業者の批評は鋭い。ただし同業者を遠慮なく批評できる立場の人はあまりいないので、そうした批評に出合う機会は多くはなさそうだ。
posted by Junichi Chiba at 16:58| 日記