1960年代後半から70年代初めにかけて黄金時代を迎えた漫画雑誌「ガロ」。その元編集者が漫画家たちとの思い出をつづった『神保町「ガロ編集室」界隈』(高野慎三著、ちくま文庫)を読んだ。漫画に詳しいわけではないが、同誌に連載された白土三平の『カムイ伝』や、つげ義春の『ねじ式』が伝説の作品であることは知っていた。そうした「伝説」と編集者のかかわりに興味をひかれ、読んでみたくなったのだ。
ベトナム反戦運動、学園闘争、70年安保など「大叛乱が続発」した時代そのものが伝説に満ちている。実際にどうだったかはともかく、「エネルギッシュだった」「熱い時代だった」というイメージを(私を含めて)後の世代は持っている。だが、60年代や70年前後を神話の舞台として飾り立てることはせず、冷静さを保ちながら当時のことを淡々と振り返っているのが本書の特徴だ。
著者によれば「『ガロ』の作家の多くは、未知の読者に向けて何らかのメッセージを伝えようと作品を手がけていたわけではない。孤独と寡黙を愛する孤高の彼らは、自らの内部世界を表したかったにすぎない」。そして「彼らの作品を支持したのは、ひと握りの若者にすぎなかった」。これを読んで、今と変わらない若者たちの心情が伝わってくるとともに、60年代の実像に近づくことができたような気がした。
しかし、よくわからなかったのは、『カムイ伝』の第一部終了(71年7月)をきっかけに、人気のあった雑誌があっさり衰退に向かってしまったことだ。社会情勢の変化によって特定の作品の人気が落ちることはあるとしても、「既成のマンガの枠を脱する」ことが「ガロ」の理念なのだとしたら、なぜ別の新しい表現、作品を模索しなかったのだろうか。
その疑問を呼び起こしたのは、第3章で紹介されている漫画家、林静一の次の言葉である。「新しいマンガ雑誌出したいね。ぼくらにとっては、つげ義春以後〞というのがひとつの課題ですからね」――。「ガロ」に作品を載せていた林はなぜガロを見切ったのか。わざわざ新しい雑誌を作らなくても「ガロ」の中で新しいものを試せばよかったのではなかったか。それとも、「ガロ」は初めから、独創的なものなどたいして求めていなかったのか。著者の回想はこの本質的な疑問に答えていない。
著者がはっきりと書いていない以上、勝手に解釈するしかないのだが、最後の章にヒントらしきものがある。すなわち編集長だった長井勝一と、「ガロ」創刊後に入ってきて編集を担当した高野の「マンガ観の違い」だ。高野は「対立」という言葉を避けつつ、こう書いている。「新人マンガ家の作品を採用するさいに、お互いが遠慮がちになった。いつしか、長井さんは長井さんの好む作品を採用し、私は私で採用するという不文律ができあがっていた」
本書によると、高野は71年末、「ガロ」の出版元である青林堂を退職し、翌年、新しい漫画雑誌「夜行」を創刊した。そして林を執筆陣に加えたり「『ガロ』のボツ組」である漫画家を起用したりした。おそらく漫画の編集は人間関係が左右する部分が大きいのだろう。業務の標準化はできず、人間関係によって「想像も及ばないエネルギー」が生まれるのを待つしかないという点では、アート業界も似たようなものかもしれない。
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