2019年09月03日

バルサの自己主張

米国の政治記者、フランクリン・フォアがサッカーを題材にグローバル化の問題を論じた『サッカーが世界を解明する』(伊達淳訳)は読みごたえのある本だ。十数年前に初めて同書を読んだときは、サッカー界の差別の実態に衝撃を受けた。著者が「人種差別と手を切れないクラブ」として、パリ・サンジェルマン、チェルシー、グラスゴー・レンジャーズ、レッドスター・ベオグラードなどの実名を挙げていたからだ(「イタリアのクラブの半分」も入っていた)。

差別は人種だけでなく宗教ともからむ。かつて中村俊輔選手が所属したセルティックのライバル、レンジャーズは「選手から守衛にいたるまでプロテスタント限定という方針を制定していた。そしてその方針は、厳しくなる一方だった。カトリック教徒と結婚した者が重役に昇進することはなかった。レンジャーズは自ら悪質なプロテスタント政策の拠点となることを選択した」。昔の話なのかもしれないが、こうした話を読んで、サッカークラブの経営はきれいごとではすまないのだなと思ったのはたしかだ。

久しぶりに同書を読み直しても、そうした差別に関するエピソードには重苦しい感想を抱かざるをえない。しかし一方で、十数年前に読み落としていた部分があったことに気がついた。それはバルサ(FCバルセロナ)に関する記述だ。著者のフォアは「バルサはこうした『空白部分』を見事に埋めている。クラブとしての歴史の中で控えめな部分は維持しつつ、洗練された自分たちを主張してきた」と指摘している。

フォアによれば、バルサ博物館にはダリやミロの絵画もあり、「正門を出たところには、ドナルド・ジャッドのようなミニマリズムから新未来派まで、幅広い現代彫刻が展示されている」。そしてバルサは「クリーンな自分たちを証明するために、基本は商業ベースだとしても本来はもっと崇高な精神で運営しているんだということを強調しようと」し、「ユニフォームの胸部に広告を載せていない」と記している(今はバルサも広告を載せている)。

これらが事実だとして、今疑問に思うのは、なぜバルサが洗練された自分たちを主張し、崇高な精神を強調したのか、ということだ。著者も指摘するように、ユニフォームの胸部に広告を載せないことは他のクラブへのあてつけである。それができたのは、バルサにはある意味、サッカー界の主流ではないという感覚があって、それゆえ、腐敗したサッカー界の現実を避けることが有効な戦略だったのではないか。

ダリにもジャッドにも直接関係はないが、アートはしばしば、現実を塗り隠すのにも使われる。人種差別やナショナリズムが現実だとすれば、それらを塗り隠すこともまた現実だ。
posted by Junichi Chiba at 23:04| 日記