2019年02月12日

風の系譜

日本の文学には「風の系譜」があると、国文学者の三木紀人先生(お茶の水女子大名誉教授)から聞いた。鴨長明などの中世文学から夏目漱石、堀辰雄らを経て宮崎駿へとつらなる系譜があるという。それを聞いたとき、えっ、宮崎駿? 文学の作家ではないですよねと思わないではなかったが、考えてみれば宮崎駿ほど風の作家と呼ぶにふさわしい人はいない。

『風の谷のナウシカ』の主人公は「風使い」だし、『となりのトトロ』でも『魔女の宅急便』でも、大事な場面で風が吹く。そして最後の作品のタイトルは堀辰雄の小説と同じ『風立ちぬ』である。その『風立ちぬ』は零戦の設計者、堀越二郎をモデルに、青年技師とヒロインの出会いを描いた作品だ。これだけでも宮崎を「風の系譜」に位置づけるのは自然なことと思える。しかし三木が挙げる理由はそれだけではなかった。

堀辰雄はポール・ヴァレリーの詩の一節を古語で「風立ちぬ、いざ生きめやも。」と訳した。フランス語の原文は「生きなければならない」だが、堀の訳を現代語にすると「生きるのかな、いや、生きられないよな」という意味にとれるため、誤訳だともいわれている(丸谷才一が堀辰雄の誤訳だと批判した)。そうした中、アニメ映画『風立ちぬ』のポスターでは「生きねば。」と記された。これはどういうことだろう。宮崎駿は堀の「誤訳」をすっ飛ばして、ヴァレリーの詩を直訳したのだろうか。

これは解釈の問題なので、そうとも言えるが、そうではないとも言える。三木によると、堀の「いざ、生きめやも。」は「生きたい、死にたい、自信がある、自信がないといった、まったく違う心のありようが振れて振れて振れまくり、ならされていくさま」を表している。だとすれば、堀の文は、風が吹いて感情の変化が起きている過程に重点を置き、アニメ映画のポスターの方は感情がならされた結果(「生きねば。」)を書いたと読むことができる。つまり根っこは同じということだ。

風の系譜の作品の中では、登場人物たちは風が吹くことによって前向きな気持ちを抱いたり立ち直りのきっかけをつかんだりしている。その点を踏まえて三木は「宮崎駿は知性、感性の面で堀辰雄と結びついている」と説明している。私にとって、この説はとても新鮮だった。こうした話を聞いた後では、アニメが娯楽を超えた感興をもたらしてくれる。
posted by Junichi Chiba at 22:27| 日記