
前回は、河合真里の絵画は多義性に面白さがある、といった話を書いた。4本の脚があるナスの形をした黄色っぽい物体がソファーのようにも、動物のようにも見えるのは面白いし、今回の出品作の中では一番大きい「pair」(画像、2016年、油彩、カンバス、97 x 146 cm)のモチーフである白い棒状のものが動物の骨のようにもネコの手のようにも見えるのは興味深い。
しかし(と、あえてここで言わなければならない)、河合が追い求めているのは形の面白さではないはずだ。それは作品の実物を見ていると、気がつくことである。例えば「pair」にしても、この際、モチーフは動物の骨でもネコの手でも何でもよいのだが、ひんやりとした空気の中で何かが何かに包まれている感じは、形の面白さとは別の次元で見る人の視線を釘づけにしてしまう。
それは絵の具の層を重ねて深みのある色を出すという描き方と関係していて、河合も「色と形でイメージをつくるというよりも漆を研ぎ出すように『かたち』を磨き込む感覚に近い」と話している。今のところ「媒介性」という言葉くらいしか思い浮かばないのだが、描いては見て、見ては描いてを繰り返す中で生み出されたものを示そうとしている、といったらよいかもしれない。
結局、河合がそのようにして表現しているのは意識の外にあるものであり、月並みな言い方をすれば言葉にはできないものである。おそらく彼女はより原始的なレベルで鑑賞者とコミュニケーションをとろうとしているのだろう。だから見る側も言葉で思考する習慣をいったん横に置いておく必要がある。「なんだ、絵画本来のあり方ではないか」と言われそうだが、その通り。これは絵画なのだ。
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