2015年06月21日

能「井筒」と「水の反映」

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10日に始まった阪急うめだ本店での展覧会は2度目の週末を終え、残り2日となった。まだ振り返るのは早いかもしれないが、普段ギャラリーではお会いできない方から新鮮な作品解釈をお聞きするのは楽しかった。中でも菅かおるの2枚一組の日本画を能の「井筒」に重ね合わせる解釈が興味深かった。

「グラスに挿した鶏頭」「グラスに挿したアネモネ」などグラスに挿した花のシリーズは0号(17.9×13.9センチ)2枚を縦に並べ一つの額に収めた作品である。上の絵には花、下の絵には水面に映った花のゆらめき。2枚の絵の間は少しだけあいている。水に挿した花の絵を上下に分割したスプリットスクリーンともいえる。菅は花(上)と「水の反映」(下)を別々に見ても成立するように構図を考えた。

この絵と能の「井筒」をオーバーラップさせるのは意外ではあるが、なるほどと思える解釈だった。「井筒」では、歌人の在原業平の妻が業平の形見の衣装を身につけ、自らの姿を井戸の水面に映す。すると、業平の面影が水面に浮かんでくる。「水の反映」は水の中をのぞき込んだ人の心象を暗示しているという解釈が能の「井筒」にも菅の日本画にも当てはまるというわけだ。

菅に聞いてみると、制作の発想にはこれと近いものがあった。水に挿した花は水を残して枯れていくが、水の中に花の記憶が流れ出る、といった空想がそれである。下の絵が鏡のように花をそっくり映すのではなく、ゆらめきながら映しているところが「流れ出る記憶」の象徴的表現である。ドビュッシー(「水の反映」という有名な曲がある)みたいに光の粒がこぼれる、などと言ったらこじつけが過ぎるかもしれない。思わぬ発見があって良かったというだけで十分だ。
posted by Junichi Chiba at 23:02| アート