古いスクラップブックをめくっていたら、「『キュレーターの時代』に潜む危うさ」という記事が目に留まった。1998年3月16日付の朝日新聞朝刊に、美術評論家の建畠晢が寄稿したものだ。キュレーターは展覧会を企画し、作家、作品を選ぶ専門職であり、日本ではほぼイコール美術館学芸員である。
建畠の趣旨は以下の通りだ。(美術の)作品はそれ自体で完結しており、展覧会の文脈に組み込まれることで初めて表現として成立するといったものではないにもかかわらず、観客はキュレーターの目のフィルターを通してもっぱら文脈ばかりを読み取ってしまう。展覧会の文脈は(優れていれば優れているほど)個々の作品に対して抑圧的に働く。展覧会の求心力が逆にアーティストの自己革新力を弱めている。
先月、世良京子展にいらした建畠さんにこの点を聞いてみたら、「今も状況は変わっていない」とのことであった。コンテクストによって展覧会に求心力を持たせたキュレーターの代表は、国際美術展ドクメンタの芸術総監督などを務めたハラルド・ゼーマン(1933〜2005年)である。建畠さんによると「アーティストは自分の作品が部品のように扱われるのをいやがるけど、ゼーマン(みたいな大物)に言われたら仕方ないかという感じだった」。それがゼーマン以外のキュレーターとの関係にも広がったらしい。
美術館の展覧会に限らず国際美術展もさらに花盛りの今「状況は変わっていない」どころか「キュレーターの時代」はより鮮明になっているのかもしれない。と、ここまで考えてきて気にかかったのは、最近ネットがらみで「キュレーションの時代」などと言われるときのキュレーターのことである。このキュレーターは美術館学芸員とは別物である。
美術の世界では(16年前の建畠の懸念が的中しているにせよ)、事実を踏まえた上で過去あるいは現在の状況を示すというキュレーターの役割自体は変わっていないだろう。ところが新たなキュレーターはネット上で情報を選び、意味づけする人といった存在らしく、将来の方向性を示すという形で未来のことを語ったり自分の価値観を前面に出したりすることもある。どちらかといえばファッションリーダーに近い役割が与えられているようにも見え、これはこれで今の「『キュレーターの時代』に潜む危うさ」なのかと思う。
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