2023年03月08日

「時間を止める」

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「時間を止めようと、人はいろんなことをする」と言ったのはボブ・ディランだが、写真家の柴田謙司も「いろんなこと」を試みた人の一人だ。彼の場合、バラやダリアなど色とりどりの花を氷に閉じ込めることによって、時間を止めようとした。閉じ込めた花を様々な角度から撮影したのが柴田の作品だ。実際には、凍らせたまま撮影することはできず、室温で撮影せざるを得ないから、氷が解ける過程を撮影しているとも言える。

花が氷に閉じ込められたありさまは「永遠の現在」の比喩である。断熱材の容器に水を張って花を入れ、ゆっくり(たとえばマイナス5度で2週間かけて)凍らせる。時間をかけることで水中の不純物がぬけ、透明な氷ができる。花の色はクリアに浮かび、氷そのものもキラキラと輝く。一方、低い温度で速く凍らせれば、白っぽい氷ができる。こうした凍結のコントロールによって、「Locked in the ether」シリーズは誕生した。

もともと柴田は「時間の止まった世界へのあこがれ」を持っていて、花が一番美しい状態で時間を止める意図があった。2014年の最初の個展でいろいろな感想を耳にしたが、制作に協力したフローリストの方が「(氷の中で)花の生命力がみなぎっている」とおっしゃっていたのが、私にとっては印象的だった。

しかし、すでにその最初の制作のときに、柴田には「花たちが氷の中で自由を求めて叫んでいるように」見えていた。つまり、花を閉じ込めた氷のブロックを冷凍倉庫からスタジオに運び、照明を当てて撮影する行為は、花たちの救済と考えることもできた。そもそも切り花になった時点で花の生は断ち切られているわけだが、氷に閉じ込めるという行為があったからこそ、「自由を求める叫び」が聞こえたということだろうか。

何やら哲学的だが、話はここで終わらない。撮影中に氷が解け出すと、花は空気にさらされ、腐敗していくという現実が見えてくる。つまり、どんな花でも自由を手に入れると同時に生に束縛されるという矛盾に突き当たる。「初めは、美しい花を氷に閉じ込めるのが面白いと思っていた」という柴田も、その矛盾の魅力を知り、撮影を進めるにつれ「花が氷から出てくるのが面白いと思えてきた」。人間には矛盾を見たいという気持ちがあるのだ。

オンラインアートフェア「NEXT Leaders of Art Scenes」(2023年3月8〜26日)への出展のため、「Locked in the ether」シリーズを見直しながら、改めてそんなことを考えた。画像は「11:42:40」(2017年、78.8×59 cm、ラムダプリント、アクリルマウント)。
タグ:柴田謙司
posted by Junichi Chiba at 18:56| アート

2023年02月22日

何のために闘うのか

ボクシング映画を観るのが好きだ。当たりはずれがあるので、平均すると満足度は必ずしも高くないが、最近観た「ケイコ 目を澄ませて」(三宅唱監督)はジムの匂いまで伝えるような絵画的な陰影が魅力的で楽しめた。16ミリフィルムでこれほど繊細な表現ができるのかという意外感もあった。デジタルで撮影すると、照明に手間をかけない分、白や黒の部分がかえって平板になってしまったのかもしれない。

ボクシング映画では、練習や試合のシーンだけでなく、ボクサーの生活の場面にも興味をそそられる。たいていのボクサーはプロであってもボクシングだけでは食べていけないから、ボクシング以外に仕事を持っていて、日常生活の中で闘いが始まっているからだ。若いころのロッキーは取り立て屋、「ミリオンダラー・ベイビー」のマギーはウエイトレスだったが、「ケイコ」の主人公(岸井ゆきの)はホテルの客室清掃員である。

もう何十年も前のことだが、沢木耕太郎のノンフィクション『一瞬の夏』を読んで、プロボクサーの暮らしぶりに驚いたことがあった。元東洋ミドル級チャンピオンのカシアス内藤が再起を期し、東洋王座をかけた試合に向けてソウルに出発するその日の朝まで仕事をしていたというのだ。このノンフィクションによると、カシアス内藤は、生まれてくる子どものために安定した収入を必要としていて、トレーナーが仕事を休めと言っても聞く耳を持たなかった。このエピソードがプロボクサーの厳しさを物語っていた。

そうした環境はいまも変わっていないだろう。ボクサーは世界チャンピオンになれば高い収入を得る道が開けるし、所属ジムも潤うが、そうでなければ食べていくのも容易ではない。一蓮托生、勝てば天国、負ければ地獄。ジムとボクサーの関係はギャラリーとアーティストの関係と似ていると、つくづく思う。

ケイコはホテルの同僚に、「仕事とボクシングを両立させるなんてすごい」と言われる。しかし、ふとしたことからバランスを崩し、精神的に追い詰められていく様子は見ていて痛々しい。何のためにリングに上がって闘うのか。考えれば考えるほど、足がすくんでしまう。では、どうすればよいのか。監督は登場人物には何も語らせないが、言いたいことは映像から伝わってきた。人はテーマありきで闘うのではない。闘い続けていれば、テーマは後からついてくるのだ。
posted by Junichi Chiba at 13:18| 日記

2023年01月18日

サヨナラ3331(下)

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前回、アートを取り巻く環境が大きく変わったと書いた。その中には社会の保守化も含まれているように思う。アーティストには新しい視覚や感覚を追求したり、社会の不平等や人間の抑圧に異議を唱えたりする人が多いのは事実だが、そういう人たちを歓迎するムードが薄れてきたのではないだろうか。現状はむしろ、伝統的な価値観を破壊する迷惑な人たちとみなす空気が強まっているのかもしれない。

橘画廊が3331を退去した2018年4月、「フラット化圧力」で以下の文を書いた。

この2年間、いろいろなことがあったが、一番印象に残ったのは2016年10月、千葉麻十佳展「The Melting Point; 石がゆらぐとき」に来られた年配の女性の「こういうの嫌い」「こういうの見ると、取り残された気分になる」という言葉であった。

「フラット化圧力」というタイトルが適切だったかどうかわからないが、6年以上たった今振り返っても、それはかなり突き刺さる言葉であった。初めから「嫌い」と公言している人に、何かを説明して理解してもらうのは無理であるとも感じた。コンセプチュアルアートみたいなものは気に入らない、そんなものはアートとして認められない、などと言われたら、もうどうしようもないのだ。(ただし千葉麻十佳の作品は2018年夏、ロバート・スミッソンやデイヴィッド・ナッシュらの作品とともに栃木県立美術館に展示されたので、アートとして認められない、というのは当たっていない)。

カート・ヴォネガットの小説『青ひげ』(1987年)には、登場人物が次のように語る場面がある。「現代美術は、ぺてん師や狂人や退廃した連中のしわざだ。それを真剣にとる人間がいまの時代におおぜいいる事実は、とりもなおさず、この世界が発狂したという証明さ。お前もこの見かたに賛成だろう」。アメリカでも日本でも、こうした考えの人は常にいて、その割合は時代によって変動しているに違いない。

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「3331によって、アートは『   』に変化した」展は2月5日まで開かれている。展覧会アーカイブのファイルには、ありがたいことに個別ギャラリーの展覧会記録もあった。橘画廊の3331での最初の展覧会は2016年5月、浅野綾花展「もう一度会ってから、グッバイね。」である。展覧会前日、大阪から深夜バスで来た浅野が重い荷物を背負って3331の階段を上ってきたのがきのうのことのようだ(「幕開けを実感するとき」)。
posted by Junichi Chiba at 13:50| アート

2023年01月17日

サヨナラ3331(上)

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今年3月末で閉館する3331 Arts Chiyoda(東京・千代田)の最後の大型企画展を見てきた。日曜の夕方、あまり時間がなかったので駆け足で見ざるをえなかったが、たまたまレセプションの時間に当たり、統括ディレクター、中村政人さんのあいさつの一部を聞くことができた。中村さんは「3331によってアートは日常の生活の一部になった。次の10年を考えるきっかけにしてもらえれば」といった趣旨のことを話されていた。

企画展は3331の12年間の活動をたどる内容で、タイトルは「3331によって、アートは『   』に変化した」。『   』の部分には参加者それぞれが思う言葉を入れてほしい、ということのようだ。アートが何に変化したのかと言われても、すぐに言葉が浮かばない。ただ、この10年で、アートというよりもアートを取り巻く環境が大きく変わったように思う。ひょっとしたら3331の閉館はその象徴ではないだろうか。

橘画廊が入居していたとき、2階の窓から目の前の公園を眺めると、サラリーマンやOLがお弁当を食べていたり、小さな子ども連れのお母さんがくつろいでいたりするのが見えて、癒やされることがあった。そこにはゆっくりとした時間が流れているようで、正直うらやましくもあった。7年前の時点で3331の年間来場者数は85万人。以前、「3331 衝撃の数字」で書いたが、入口を通過した人を自動的にカウントしているため、この数字には、はっきりした目的もなく来場した人の数が含まれている。その来場者数の底上げに寄与していた「なんとなく来る人たち」が減っているような気がしてならない。

5、6年前の感覚的な話に過ぎないが、仕事や買い物のために秋葉原あたりまで来て、まっすぐ帰るのはもったいないから、3331にでも寄ろうかという人が一定数いたと思う。仕事中のビジネスパーソンが息抜きをするにしても、アートを鑑賞しているということであれば、さほど世間体は悪くなかったのかもしれない。

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ギャラリーのスペースづくりは難しい。作品を販売するという目的が前面に出過ぎると、近寄りがたい場所になってしまい、偶然の出会いが完全に失われてしまう。だから、少し隠れ家っぽいけれど、よそよそしくはない場所をつくろうとするのだが、一般の人の側に、少し遠回りして一息つくだけの余裕がなくなってしまうと、両者はすれ違うばかりだ。

3331 Arts Chiyodaは旧練成中学校をリニューアルしたアートセンターである。竣工から44年経って老朽化しているため、大規模に改修して「恒常的な文化芸術施設」を作り直す方針が出されている。ピカピカで合理的な「文化芸術施設」にすると、都会の隙間で一息つこうという人たちはなおさら来なくなってしまうのではないか。あるいは、アートセンターでなごもうという人など、もういないのだろうか(下の写真は2016年11月撮影。このとき橘画廊では油彩画の山地咲希展を開いていた)。
posted by Junichi Chiba at 13:07| アート