2021年11月29日

小説の小さな断片

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日曜日の午後8時、(チェーン店の)カフェで独り本を読んでいるとき、BGMに「グリーンスリーブス」が流れてきて、物淋しい気分にとらわれた。読んでいたのが村上春樹の『海辺のカフカ』で、しかもそれが再読だったから、回顧に拍車がかかって感傷的になってしまった。

この1年余り、村上春樹の小説をよく読んだ。『1Q84』『アフターダーク』『海辺のカフカ』『風の歌を聴け』……。ほとんど再読である。本格的に再読を始めたのは昨年10月、内田涼の絵の前で、版画家の浅野綾花と村上春樹の話をしたころだ。浅野が「最近、『1Q84』を読んだ」と言ったこと、内田の作品の中の「影」が『1Q84』に出てくる「影」とつながったことが、きっかけといえばきっかけである。

再読を進めて気がついたのは、小説の中で錯綜する「中くらいの筋」はけっこう忘れているのに、セリフなど細部は意外に覚えているということだった。たとえば『海辺のカフカ』に登場するトラック運転手の青年、星野のセリフ。

「役に立っているというのはなかなか悪くない気分だ。そんな気持ちになれたのはほとんど生まれて初めてのことだ。仕事をすっぽかして、こんなところまで来ちまって、次から次へわけのわからないことに巻き込まれているけど、俺はこうなったことをべつに後悔しちゃいない」

こういうセリフに出会うと、過去(初めて読んだとき)と現在が突然接続するような感覚に襲われる。

その星野青年と共に「入り口の石」を探すナカタと猫のカワムラの会話も味わい深い。

「クァムラ、さばなら、縛る。縛るなら、探す」

前後がなくても、このセリだけ見れば『海辺のカフカ』だとわかるし、記憶再生のスイッチが入る。

「すみません。先ほども申しましたように、ナカタはずいぶん頭が悪いので、カワムラさんのおっしゃっておられることがよくわかりません。もう一度繰り返していただけますか?」
「クァムラ、さばなら、かさる。探るなら、縛る」

何の意味もないセリフだが、その出方に意外感があって感動的だ。小さな断片の力恐るべし。
タグ:村上春樹
posted by Junichi Chiba at 21:15| 日記

2021年10月25日

GTT

DVDで映画「スター・ウォーズ 新たなる希望」(1977年)のラストシーンを見ていたら、あることに気がついた。反乱軍が帝国軍の宇宙要塞デス・スターを破壊した後の式典で、レイア姫はまずハン・ソロ、次にルーク・スカイウォーカーの順にメダルを授与しているのだ。デス・スターにミサイルを命中させたルークではなく、いったん反乱軍を見捨てながらも戻ってきてルークを支援したソロを優先しているのは、レイアがソロを好きだったからというよりも、やはりアメリカ人がソロのような人物を好きだったからではないだろうか。

ハリソン・フォードが演じたハン・ソロは無頼漢のパイロット(密輸業者)で、借金取りから逃げ回りながら一攫千金を狙っている。19世紀前半のアメリカでは、多額の借金を抱えていてもメキシコ領のテキサスに逃げ込めば自由になれる、といった意味でGone to Texas (GTT)という表現が使われたそうだが、ソロの行動はまさにGTTだ。アメリカ人は、GTTを実践し、自由を手に入れた末、仲間に恩返しをするハン・ソロに喝采を送りたい気分があったのだろう。

ソロの参戦は、第二次世界大戦に後から参戦し、ヨーロッパを救済したアメリカの行動とも重なっている。ヨーロッパのような文化の蓄積がなく、西洋文明の辺境の国として引け目を感じていたアメリカは、ヨーロッパを助けることで予想外に自信をつけてしまった。レイア姫からメダルをかけてもらい有頂天になったソロの姿は、第二次大戦の勝利で自信を持ったアメリカの姿であり、1950年代のアメリカの気分の反映として見ることができそうだ。

もっとも、アメリカの自信は過剰だったのかもしれない。冷戦時代のアメリカは芸術面でもソ連との戦いに勝利しようと、アートなどの芸術文化を外交に利用し始めた。特にマーク・ロスコやジャクソン・ポロックなどの抽象絵画は、ソ連の社会主義リアリズムの対極にあるため、表現の自由を示すプロパガンダには格好の材料であった。もともと抽象絵画の画家たちは政治から距離を置き、ソロと同様、もっぱら自分のことに関心を持っていたはずだが、自由な気風が強いからこそ政治に利用されてしまったのは皮肉なことである。

「スター・ウォーズ」に関して言えば、ハン・ソロはメダルなどもらわず、チューバッカとともにミレニアム・ファルコンで飛び去ってしまえばよかったのではないか。レイア姫がいたから、それができなかったのかもしれないが。
posted by Junichi Chiba at 18:59| アート

2021年09月16日

ふくらはぎがつった夢

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新型コロナワクチンの2回目の接種を受けた翌日夜、38.7度の熱が出て、もうろうとした状態で眠りについた。そして深夜だったのか未明だったのか、左足のふくらはぎがつった夢を見た。夢の中の自分が右手で左足の指をつかんで引き寄せようとしたが届かず、ふくらはぎの筋肉はこわばったままで、少しも痛みが治まらない。こむら返りというやつだ。夢の中の自分が痛がっているのに驚いて、一瞬、目が覚めた。

もうろうとしたまま再び眠りについていくらか時間がたったころ、今度は、左足のふくらはぎがつっている自分を夢で見ている自分の夢を見た。激しい痛みを感じるのだが、夢の中の自分が痛いのか、夢の中の自分が見ている夢の中の自分が痛いのか、わからない。とにかく痛みだけが生じていた。とても不思議なことである。目を閉じていて視覚刺激がないにもかかわらず、頭の中に夢という映像が浮かんでいて、その夢の中でも夢を見ていて、どこかに痛みが生じているのだ。

オランダの画家、エッシャーに「描く手(Drawing Hands)」という版画がある。鉛筆を持つ2つの手がお互いの手を描いている作品だ。2つの手はどちらかが実体で、どちらかが幻(絵)というわけではなく、どちらも幻だと解釈できる。同じような見方をすれば、夢を見ている自分も、それを夢に見ている自分も、さらにそれを夢に見ている自分も、すべて幻だということだろうか。ただし痛みはどこかに存在したのだが。

なんとなくモヤモヤした気分が続いていたある朝、この夢のことを初めて人に話したら、今度は夢の内容に自信が持てなくなってきた。思い起こしながら話すうちに、夢の中で左足のふくらはぎがつっていたのではなく、本当に自分の左足のふくらはぎがつって痛がっていたのではないかとも思えてきたのだ。特に1回目の痛みに関しては……。いまさら確認のしようもないことだが、もし3回目のワクチン接種を受けて同じ夢を見られるのなら、夢の内容を確かめたいと、少しだけ思っている。
posted by Junichi Chiba at 17:28| 日記

2021年08月31日

反乱軍と帝国の入れ替わり

新聞を読んでいたら「アップル、訴訟で開発者と和解へ」という見出しの記事が目に留まった。

「米カリフォルニア州内のアプリ開発者らが2019年に起こしていた集団訴訟で、原告側はアップルが自社製品向けのアプリ配信サービス「アップストア」上で流通するアプリの値付けを制限するのは反トラスト法(独占禁止法)に違反すると主張。同社に対しアプリの価格制限を禁じ、損害を賠償するよう求めていた」(2021年8月27日付の日本経済新聞夕刊)。アップルがこの要求を受け入れるというのが記事の趣旨だ。

スティーブ・ジョブズが健在だったころのアップルといえば、1960年代のカウンターカルチャーを体現する企業であり、東海岸の大企業への抵抗の象徴であった。映画「スター・ウォーズ」でいえば、ルーク・スカイウォーカーらがいる反乱軍の役回りである。傷つきやすいが正義感のある若者といったイメージであり、それゆえアート、音楽、映画などの業界の共感を呼んでいた。

しかしiPhoneで大成功した後のアップルはもはや、大企業に対抗する新興企業でもなければ、抵抗の象徴でもない。今回の和解の解釈はともかく、同社が反トラスト法違反で中小企業から訴えられている姿は、「スター・ウォーズ/ スカイウォーカーの夜明け」の最後の方で、皇帝の軍隊が人民の小型船から攻撃されているシーンとかぶって見えて、変に感慨深いものがある。

反乱軍が帝国に打ち勝つと、自ら帝国に変貌するというのはアート業界でも同じである。いまのメガギャラリーもかつては新興企業であった。3年前、メガギャラリーとそのほかのギャラリーの格差は広がる一方であると書いた(「ちょっとした税金」)し、コロナ禍のいまもそれは変わっていないが、帝国の支配がいつまで続くのかはだれにもわからない。既存の組織のぶ厚い壁を破って新しいギャラリーが登場する可能性は常にある。
タグ:ギャラリー
posted by Junichi Chiba at 21:11| アート