2021年09月16日

ふくらはぎがつった夢

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新型コロナワクチンの2回目の接種を受けた翌日夜、38.7度の熱が出て、もうろうとした状態で眠りについた。そして深夜だったのか未明だったのか、左足のふくらはぎがつった夢を見た。夢の中の自分が右手で左足の指をつかんで引き寄せようとしたが届かず、ふくらはぎの筋肉はこわばったままで、少しも痛みが治まらない。こむら返りというやつだ。夢の中の自分が痛がっているのに驚いて、一瞬、目が覚めた。

もうろうとしたまま再び眠りについていくらか時間がたったころ、今度は、左足のふくらはぎがつっている自分を夢で見ている自分の夢を見た。激しい痛みを感じるのだが、夢の中の自分が痛いのか、夢の中の自分が見ている夢の中の自分が痛いのか、わからない。とにかく痛みだけが生じていた。とても不思議なことである。目を閉じていて視覚刺激がないにもかかわらず、頭の中に夢という映像が浮かんでいて、その夢の中でも夢を見ていて、どこかに痛みが生じているのだ。

オランダの画家、エッシャーに「描く手(Drawing Hands)」という版画がある。鉛筆を持つ2つの手がお互いの手を描いている作品だ。2つの手はどちらかが実体で、どちらかが幻(絵)というわけではなく、どちらも幻だと解釈できる。同じような見方をすれば、夢を見ている自分も、それを夢に見ている自分も、さらにそれを夢に見ている自分も、すべて幻だということだろうか。ただし痛みはどこかに存在したのだが。

なんとなくモヤモヤした気分が続いていたある朝、この夢のことを初めて人に話したら、今度は夢の内容に自信が持てなくなってきた。思い起こしながら話すうちに、夢の中で左足のふくらはぎがつっていたのではなく、本当に自分の左足のふくらはぎがつって痛がっていたのではないかとも思えてきたのだ。特に1回目の痛みに関しては……。いまさら確認のしようもないことだが、もし3回目のワクチン接種を受けて同じ夢を見られるのなら、夢の内容を確かめたいと、少しだけ思っている。
posted by Junichi Chiba at 17:28| 日記

2021年08月31日

反乱軍と帝国の入れ替わり

新聞を読んでいたら「アップル、訴訟で開発者と和解へ」という見出しの記事が目に留まった。

「米カリフォルニア州内のアプリ開発者らが2019年に起こしていた集団訴訟で、原告側はアップルが自社製品向けのアプリ配信サービス「アップストア」上で流通するアプリの値付けを制限するのは反トラスト法(独占禁止法)に違反すると主張。同社に対しアプリの価格制限を禁じ、損害を賠償するよう求めていた」(2021年8月27日付の日本経済新聞夕刊)。アップルがこの要求を受け入れるというのが記事の趣旨だ。

スティーブ・ジョブズが健在だったころのアップルといえば、1960年代のカウンターカルチャーを体現する企業であり、東海岸の大企業への抵抗の象徴であった。映画「スター・ウォーズ」でいえば、ルーク・スカイウォーカーらがいる反乱軍の役回りである。傷つきやすいが正義感のある若者といったイメージであり、それゆえアート、音楽、映画などの業界の共感を呼んでいた。

しかしiPhoneで大成功した後のアップルはもはや、大企業に対抗する新興企業でもなければ、抵抗の象徴でもない。今回の和解の解釈はともかく、同社が反トラスト法違反で中小企業から訴えられている姿は、「スター・ウォーズ/ スカイウォーカーの夜明け」の最後の方で、皇帝の軍隊が人民の小型船から攻撃されているシーンとかぶって見えて、変に感慨深いものがある。

反乱軍が帝国に打ち勝つと、自ら帝国に変貌するというのはアート業界でも同じである。いまのメガギャラリーもかつては新興企業であった。3年前、メガギャラリーとそのほかのギャラリーの格差は広がる一方であると書いた(「ちょっとした税金」)し、コロナ禍のいまもそれは変わっていないが、帝国の支配がいつまで続くのかはだれにもわからない。既存の組織のぶ厚い壁を破って新しいギャラリーが登場する可能性は常にある。
タグ:ギャラリー
posted by Junichi Chiba at 21:11| アート

2021年07月25日

悪者が見えない

前回書いた通り、赤松利市の小説『アウターライズ』では、日本人を搾取者、東北人を被搾取者として描いている。そして日本のアンチテーゼとして構想されたのが東北国だった。では(小説の中で)東北国は日本が抱えている問題をどのようにして解決したのか、東北国の国民は幸福になったのか――。

ネタバレにならない程度に書くと、東北国では社会主義的な政策をとっている。たとえばベーシックインカム(最低所得保障)の導入や、住居、医療の無償提供など、十分すぎるほどの手厚い政策だ。また業種ごとにギルドがつくられていて、国民の間で所得格差はない。職を失った人間が労働意欲をなくし、ニート状態に陥っているという日本の裏返しで、劣等感によって幸福が損なわれることもないらしい。

差別や格差の問題に目を向けた小説としては小林多喜二の『蟹工船』(1929年)が有名である。船の中で奴隷のような労働を強いられた漁夫、雑夫たちがあるとき権利意識に目覚めて反転攻勢に出るという物語だ。『アウターライズ』は過酷な労働と搾取に苦しむ人たちが(独立という手段で)反撃するという点では共通している。

しかし『蟹工船』の場合、悲惨な場面が延々と続いて緊張感を強いられるが、『アウターライズ』ではアニメ声の女性首相や失言の多いコメンテーターなど漫画的なキャラクターが出てきて気楽に読むことができる。そして、『蟹工船』では資本家をはじめ、「蛇に人間の皮をきせたような奴」といわれる監督など悪者がはっきりしているのに対し、『アウターライズ』では具体的な悪者が描かれていないという点で、2つの作品は大きく異なっている。

90年以上前の『蟹工船』の時代と違って、現代では搾取と被搾取の関係、差別の構図がより複雑さを増していて、小説の中であっても悪者の追及は容易ではないだろう。犯人である悪者を探してみたところで、見つからないという可能性もある。だから、搾取をしている主体は「中央」という漠然とした存在にせざるを得なかったのではないか。そんな状況だからこそ、だれか悪者を罰する代わりに、東北国の独立という突飛な発想によって日本の社会システムそのものを全否定しないと、作者としてはやりきれなかったのかもしれない。
posted by Junichi Chiba at 20:42| 日記

2021年07月12日

小説『アウターライズ』

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たまたま読んだ赤松利市の小説『アウターライズ』が面白かった。東日本大震災級の大地震、アウターライズが発生した後、東北が独立したという設定で、外国である日本のマスコミが東北国誕生の謎を探るという物語だ。作中の謎の人物、Lonely Dragonがネット上の論文で、徹底して日本人を搾取者、東北人を被搾取者として描いているが、それは間違いなく作者である赤松の怒りの表れである。

たとえば作中の論文はこんなふうに意見を記している。「東北を支援する人たちはKIZUNAという言葉を口にした。この言葉が人と人との繋がり、あるいは助け合いを意味するようになったのはつい最近のことだ。もともとの意味は違った。KIZUNAは木の綱を意味する言葉だった。すなわち家畜や犬を通りがかりの立ち木につないでおく綱がKIZUNAなのである。東日本大震災においてこの言葉が多用されたことに私は深読みを禁じ得ない。彼ら日本人は、被搾取の歴史を歩んできた東北や東北人を、家畜や犬のように感じているのか、というのは言い掛かりだろうか?」

「言い掛かりだろうか」と言いつつ、作中人物のLonely Dragonはこう主張している。「東日本大震災において成されたのは復興ではない。復旧だ。再びの搾取を可能にするために、日本国は東北を復旧したのだ」。被災地で土木作業員をしていたという赤松は東北の事情に詳しいらしく、細かいエピソードからも義憤が感じられる。

特筆すべきは、この義憤の塊のような物語をエンターテインメントの装いで書き切ったことだ。ディストピア小説ともいえるが、現実とはまったく違う世界を提示したわけではない。現実社会を見る角度をずらすことによって、そこがすでに地獄であるかもしれないことを気づかせつつ、その中で前向きな気持ちが芽生えることも描いている。時間つぶしのための作品ではないだろう。
posted by Junichi Chiba at 20:52| 日記