
図書館で本を借りたら、貸出票が挟まっていた。「1日でも返却が遅れると貸出しできなくなります」と、大きな字で書かれているが、発行日すなわち貸出日は2012年5月23日である。10年前にだれかがこの本を借りたときに貸出票を挟んだままにして、その後10年間、だれもこの本を借りなかったということだろうか。
その貸出票は、シャンサ、リシャール・コラス著、大野朗子訳『午前4時、東京で会いますか?』(2007年)の80ページと81ページに挟まっていた。本というのは北京生まれの作家、シャンサとシャネル日本法人の社長なども務めたフランス人の作家、コラスの往復書簡集である。80ページにはこう書かれていた。
「男も女も、革命と社会主義の建設という、精神的な労働に励んでいる反物質主義の世界から、私は贅沢と快楽が勝利するパリに来たのです。ヴァンドーム広場の店には宝石があふれ、モンテーニュ通りのブティックでは、ドレスや毛皮をまとい、首に真珠のネックレスを巻き、ワニ革のバッグを持ったマネキンが、通りかかる人を誘います。街で見かける香水、化粧品、衣服、下着の広告用ポスターには、豊かな胸の脚の長い女性や上半身裸の男性がポーズを取り、キスを交わし、抱擁しています。」
天安門事件後の1990年、17歳で中国からフランスに渡ったシャンサがパリでカルチャーショックを受けたときの心情をつづった部分だ。資本主義だろうと社会主義だろうと、日常生活には嫌なことがたくさんあるはずだが、資本主義国の人間は快楽を求めて気を紛らわせようとしたのに対し、社会主義国の人間は「革命と社会主義の建設」という精神的な労働に励んで嫌なことを忘れようとしていた、ということなのだろう。シャンサは感情を押し殺すことで価値観の逆転を受け入れたと、振り返っている。
最初からこの本を読んでいくと、贅沢と快楽が勝利するパリの風景のほかに、もう一つ、シャンサがカルチャーショックを受けた対象があった。それが現代美術である。「友人の収集家やアーティストたちが、画廊やアート・フェア、ビエンナーレなどに連れて行ってくれました。まるでゴミ箱のような作品、鉄くずの山、切り刻まれたホルマリン漬けの動物を前にしたとき、私はよくバルテュスを思い出しました。(中略)バルテュスの世界から追放された『醜悪なもの』を見るうちに、私の目は現代に向けて開かれていきました」
中国からフランスに来たばかりのシャンサの目に、「鉄くずの山、切り刻まれたホルマリン漬けの動物」は醜いものとして映ったようだ。そのことは彼女が画家バルテュスに2年間師事したこととも無関係ではない。しっかりした構成で少女像を描いたバルテュスは「現代風に鮮明な色を塗り、ぐにゃぐにゃした線やだらけた形を描き、意図も構成の努力のかけらもない無責任な作品」を嫌っていたからだ。
こうしたエピソードに出合うと、美術の見方は国の体制によって左右されたり、周囲の人間の影響を受けたりすると思わざるを得ない。そして村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』に出てくる主人公の叔父の言葉を思い出すのである。「俺はね、この自分のふたつの目で納得するまで見たことしか信用しない。理屈や能書きや計算は、或いは何とか主義やなんとか理論なんてものは、だいたいにおいて自分の目でものを見ることができない人間のためのものだよ。そして世の中の大抵の人間は、自分の目でものを見ることができない」
シャンサは現代美術を醜いと言いながらも「現代美術の世界に惹かれていった」とも書いている。だとすると、若いうちに「人間は自分の目でものを見ることができない」と知り、大きな不安を抱えてしまったのではないだろうか。彼女はその不安を解消できたのかどうか。午前4時近く、読み終えてそんなことを考えた。
posted by Junichi Chiba at 23:13|
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